Tokaちゃん。
投稿者: sintyou5 投稿日時: 2008/04/06 20:39 投稿番号: [159222 / 196466]
日本神話、って、危ない話は沢山あるんだよな、実際。いいだろ。
>古代日本では同母兄妹(または姉弟)の間の性関係はタブーであったとされる。有名なものでは木梨軽皇子と軽大娘皇女が挙げられる(詳しくは「衣通姫伝説」の項を参照)。しかし、異母の場合およびおじ=姪・おば=甥の関係はかなり普通にあり、むしろ理想の結婚と考えられていたようである。また、イザナキとイザナミとの間の性関係で日本は出来たと『古事記』には記されているし、ヒルコが生まれたのも兄妹間での性関係の罪のせいではなく、女から性関係を迫った罪だとされる>>
>また、記紀によれば、木梨軽皇子、長田大娘皇女、境黒彦、安康天皇、軽大娘皇女、八瓜白彦、雄略天皇、橘大娘皇女、酒見娘皇女が同父母兄弟姉妹であるという記載があり、『古事記』によれば安康天皇が臣下の嘘の証言を信じ大草香皇子を殺しその妻であった姉長田大娘皇女を妻としたとされているため、これは姉弟姦なのではという意見もある。ただし『日本書紀』の雄略紀では安康天皇の妻は履中天皇の皇女である中磯皇女とし、亦の名は長田大娘皇女と註を付けるという言い方をしている。この場合は従姉弟婚となる。一方で『日本書紀』では木梨軽皇子と軽大娘皇女のロマンティックな絡みは見られず、人間的に木梨軽皇子寄りの記述が『古事記』ほど窺えないのも特徴的である。この部分は記紀の記述が異なっている有名な事例の一つである。このため、山上伊豆母はあくまでも記紀に書かれた記述はあくまでも記紀編纂者の観念の反映であり、それよりも200年も前の木梨軽皇子の時代にも同じ倫理観(同母兄妹(または姉弟)の間の性関係に対する禁忌)が存在していたとする確証はないとしている。なお、安康天皇は後に長田大娘皇女の連れ子である眉輪王に暗殺されている。>>
>聖徳太子は欽明天皇の息子である用明天皇と娘である穴穂部間人皇女の間から生まれたとされている(「記紀」共に認める)のにもかかわらず、聖人として認められている。また、『日本書紀』によると用明天皇の母堅塩媛は、穴穂部間人皇女の母小姉君の同母姉にあたり、蘇我稲目の娘であると記す。つまり兄弟であり従兄妹であったということになる。しかしながら、一方で『古事記』は、小姉君を堅塩媛のオバと記している。これについて「捜聖記」においては、堅塩媛が「媛」なのに対し、小姉君が「君」であることから、小姉君は稲目の養女なのではないかと推測しているが、これは推測の域を出ない。なお、聖徳太子の母である穴穂部間人皇女は用明天皇の没後、その皇子である田目皇子と結婚している(「上宮記」による)。これは今で言うところの義理の母子結婚に当たる。さらに、『古事記』によると田目皇子は穴穂部間人皇女の姉の子であり甥に当たるとされる。>>
>大化の改新が起こるが、『万葉集』に孝徳天皇が、妻の間人皇女に当てた歌の中に間人の同母兄である中大兄皇子(後の天智天皇)との不倫を示唆しているとされる歌が収録されている。このことで批判されたため中大兄皇子は天皇位になかなか就けなかったのではないかとも言われている。
ほぼ同じ頃、天武天皇は持統天皇及び3人の天智天皇の娘、すなわち姪を妃にしているほか、元明天皇は甥の草壁皇子の妃となっている。この他にも異母近親婚、おじ・おばとの近親婚の例は多い。
平安時代初期にも異母近親婚は行われる。桓武天皇は異母妹酒人内親王を妃にした。ただ、これは当時緊張感が漂っていた朝廷を鎮めるための政略結婚だったといわれる。彼らの間には朝原内親王が生まれたが、彼女も異母兄平城天皇の妃となった。
その後、藤原氏のように天皇家と近づこうとした貴族が現れたことで、天皇家と藤原氏の二氏族の近親相姦のような状況が日本では平安時代に作り出された。>>
昔だから、いいだろ。
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>古代日本では同母兄妹(または姉弟)の間の性関係はタブーであったとされる。有名なものでは木梨軽皇子と軽大娘皇女が挙げられる(詳しくは「衣通姫伝説」の項を参照)。しかし、異母の場合およびおじ=姪・おば=甥の関係はかなり普通にあり、むしろ理想の結婚と考えられていたようである。また、イザナキとイザナミとの間の性関係で日本は出来たと『古事記』には記されているし、ヒルコが生まれたのも兄妹間での性関係の罪のせいではなく、女から性関係を迫った罪だとされる>>
>また、記紀によれば、木梨軽皇子、長田大娘皇女、境黒彦、安康天皇、軽大娘皇女、八瓜白彦、雄略天皇、橘大娘皇女、酒見娘皇女が同父母兄弟姉妹であるという記載があり、『古事記』によれば安康天皇が臣下の嘘の証言を信じ大草香皇子を殺しその妻であった姉長田大娘皇女を妻としたとされているため、これは姉弟姦なのではという意見もある。ただし『日本書紀』の雄略紀では安康天皇の妻は履中天皇の皇女である中磯皇女とし、亦の名は長田大娘皇女と註を付けるという言い方をしている。この場合は従姉弟婚となる。一方で『日本書紀』では木梨軽皇子と軽大娘皇女のロマンティックな絡みは見られず、人間的に木梨軽皇子寄りの記述が『古事記』ほど窺えないのも特徴的である。この部分は記紀の記述が異なっている有名な事例の一つである。このため、山上伊豆母はあくまでも記紀に書かれた記述はあくまでも記紀編纂者の観念の反映であり、それよりも200年も前の木梨軽皇子の時代にも同じ倫理観(同母兄妹(または姉弟)の間の性関係に対する禁忌)が存在していたとする確証はないとしている。なお、安康天皇は後に長田大娘皇女の連れ子である眉輪王に暗殺されている。>>
>聖徳太子は欽明天皇の息子である用明天皇と娘である穴穂部間人皇女の間から生まれたとされている(「記紀」共に認める)のにもかかわらず、聖人として認められている。また、『日本書紀』によると用明天皇の母堅塩媛は、穴穂部間人皇女の母小姉君の同母姉にあたり、蘇我稲目の娘であると記す。つまり兄弟であり従兄妹であったということになる。しかしながら、一方で『古事記』は、小姉君を堅塩媛のオバと記している。これについて「捜聖記」においては、堅塩媛が「媛」なのに対し、小姉君が「君」であることから、小姉君は稲目の養女なのではないかと推測しているが、これは推測の域を出ない。なお、聖徳太子の母である穴穂部間人皇女は用明天皇の没後、その皇子である田目皇子と結婚している(「上宮記」による)。これは今で言うところの義理の母子結婚に当たる。さらに、『古事記』によると田目皇子は穴穂部間人皇女の姉の子であり甥に当たるとされる。>>
>大化の改新が起こるが、『万葉集』に孝徳天皇が、妻の間人皇女に当てた歌の中に間人の同母兄である中大兄皇子(後の天智天皇)との不倫を示唆しているとされる歌が収録されている。このことで批判されたため中大兄皇子は天皇位になかなか就けなかったのではないかとも言われている。
ほぼ同じ頃、天武天皇は持統天皇及び3人の天智天皇の娘、すなわち姪を妃にしているほか、元明天皇は甥の草壁皇子の妃となっている。この他にも異母近親婚、おじ・おばとの近親婚の例は多い。
平安時代初期にも異母近親婚は行われる。桓武天皇は異母妹酒人内親王を妃にした。ただ、これは当時緊張感が漂っていた朝廷を鎮めるための政略結婚だったといわれる。彼らの間には朝原内親王が生まれたが、彼女も異母兄平城天皇の妃となった。
その後、藤原氏のように天皇家と近づこうとした貴族が現れたことで、天皇家と藤原氏の二氏族の近親相姦のような状況が日本では平安時代に作り出された。>>
昔だから、いいだろ。
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これは メッセージ 159198 (cobapics0506z さん)への返信です.
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