Re: 同化政策
投稿者: movie2046picture 投稿日時: 2007/12/04 14:47 投稿番号: [149246 / 196466]
>アイヌ語が現存しないのは別に日本が消滅させたわけではなく、アイヌ自身の選択だ。非常に高度な文明に隣接する低開発の文明の共通した運命だよ。<
江戸時代の日本社会においては「独自の文字がない=読み書きができない」ということは能力の欠如を意味していた。当時の知識人に流布していた日本版小中華思想もあり、アイヌは古来からの蝦夷と連続する『蛮族』であり、『中華』『神国』たる日本に服属する存在として捉えられた。また、アイヌの中には「実力行使の前に徹底的に話し合う」という風習を持つところも少なくなかった。この、極力無用な戦いを避けようとする高貴な姿勢は、戦争や士農工商等の身分制度を当然視していた戦国時代・江戸時代の武士には十分に尊重されず、また、されるはずもなく、逆にアイヌ民族への不当な抑圧を自らみすみす招いてしまっただけとも考えられている。そして、他の地域における農民一揆と同様に、この封建社会的抑圧に対する怒りとして数度にわたるアイヌの大規模な軍事行動が発生したとされている。
さらに、明治維新以降、西ヨーロッパ文明の技術とともにその思想をも大々的に受け入れていた明治時代の日本人にとっては、古くからの因習と風俗を守り続けているアイヌは、他のアジア人同様、「未開」な「弱者」に相当する存在と捉えられた。もともと北海道進出の歴史が対ロシアとの緊張(ゴローニン事件など)で加速されていたこともあり、「北海道をロシアにとられないため」という防御的な理由と「未開地は(欧米と同じように)支配して文明開化すべきだ」という文明的な理由とが存在していた。
こうした背景もあり、明治政府は、1457年のコシャマインの戦い以来日本の統治下にあるアイヌを正式に平民として日本人(大日本帝国臣民)に組み入れることにより、北海道という土地を明確に自国領として取り扱った。また、明治人(特に知識人)の間では、アイヌを「教化しなければならない未開人」または「助けなければならない弱者」と考える向きが強まり、同化政策と保護運動が同時併行して行われた。
さらに、明治維新およびその後の政治が、日本の社会体制を「地域社会型」から「都市集中型」に切り替えたことも、アイヌ民族のアイデンティティーに対して重要な影響を及ぼすこととなる。当初、明治政府は戊辰戦争で賊軍になった諸藩に開拓団を出させていたが、これが軌道にのると、北海道そのものが内地(本州)で起きていた人口流動の最も重要なはけ口となったからである(後に満州開発が始まると、人口流動の最も重要なはけ口は満州へと移っていった)。
この時期のアイヌを、アイヌの側から見てみると、非文明的という受け入れ難い理由により伝統的な狩猟や医療(シャーマニックな祈祷)が禁止されたばかりか、和人入植者である「新土人」の対語として作られた「旧土人」という分類に勝手に区分され、居住地区を勝手に用意されて強制移住させられたりするなど、土地に関して極めて人権侵害的な扱いを受けていたと言える。この「土地の所有に関する問題」は、北海道地券発行条例から始まり、北海道旧土人保護法に至る流れで確定的となった。段階的に土地に関する法令が生まれていった背景にも、アイヌに対する日本人側の御都合主義的な考え方が反映されていると考えられている。
皇民化教育(こうみんかきょういく)は大日本帝国の支配地域において、その主権者とされた天皇を中心として大日本帝国への忠誠を要求した教化政策。日本民族への教化政策であると同時に、植民地および占領地域の諸民族(朝鮮人、台湾人、アイヌ人、琉球人、南洋群島や東南アジアの先住諸民族)に対して行われた強制的な同化・教化政策である。皇民化政策とも言う。
具体的内容
* 言語統制。すなわち、日本語標準語の公用語化、教育現場における琉球語、アイヌ語、朝鮮語、台湾語などの禁止など(例えば琉球では琉球語を学校内で使用した児童生徒は罰札(方言札)を首から下げさせられた)。家庭内においても標準語を使用することが奨励された。
* 教育勅語の「奉読」、奉安殿の設置などによる学校教育での天皇崇拝の強要、日の丸掲揚や君が代斉唱などを通じた日本人意識の植え付け。
* 台湾神社、朝鮮神宮等の建立や参拝の強制などの国家神道と宗教政策(日本の宗教参照)。軍人への敬礼や皇居への遥拝など。
江戸時代の日本社会においては「独自の文字がない=読み書きができない」ということは能力の欠如を意味していた。当時の知識人に流布していた日本版小中華思想もあり、アイヌは古来からの蝦夷と連続する『蛮族』であり、『中華』『神国』たる日本に服属する存在として捉えられた。また、アイヌの中には「実力行使の前に徹底的に話し合う」という風習を持つところも少なくなかった。この、極力無用な戦いを避けようとする高貴な姿勢は、戦争や士農工商等の身分制度を当然視していた戦国時代・江戸時代の武士には十分に尊重されず、また、されるはずもなく、逆にアイヌ民族への不当な抑圧を自らみすみす招いてしまっただけとも考えられている。そして、他の地域における農民一揆と同様に、この封建社会的抑圧に対する怒りとして数度にわたるアイヌの大規模な軍事行動が発生したとされている。
さらに、明治維新以降、西ヨーロッパ文明の技術とともにその思想をも大々的に受け入れていた明治時代の日本人にとっては、古くからの因習と風俗を守り続けているアイヌは、他のアジア人同様、「未開」な「弱者」に相当する存在と捉えられた。もともと北海道進出の歴史が対ロシアとの緊張(ゴローニン事件など)で加速されていたこともあり、「北海道をロシアにとられないため」という防御的な理由と「未開地は(欧米と同じように)支配して文明開化すべきだ」という文明的な理由とが存在していた。
こうした背景もあり、明治政府は、1457年のコシャマインの戦い以来日本の統治下にあるアイヌを正式に平民として日本人(大日本帝国臣民)に組み入れることにより、北海道という土地を明確に自国領として取り扱った。また、明治人(特に知識人)の間では、アイヌを「教化しなければならない未開人」または「助けなければならない弱者」と考える向きが強まり、同化政策と保護運動が同時併行して行われた。
さらに、明治維新およびその後の政治が、日本の社会体制を「地域社会型」から「都市集中型」に切り替えたことも、アイヌ民族のアイデンティティーに対して重要な影響を及ぼすこととなる。当初、明治政府は戊辰戦争で賊軍になった諸藩に開拓団を出させていたが、これが軌道にのると、北海道そのものが内地(本州)で起きていた人口流動の最も重要なはけ口となったからである(後に満州開発が始まると、人口流動の最も重要なはけ口は満州へと移っていった)。
この時期のアイヌを、アイヌの側から見てみると、非文明的という受け入れ難い理由により伝統的な狩猟や医療(シャーマニックな祈祷)が禁止されたばかりか、和人入植者である「新土人」の対語として作られた「旧土人」という分類に勝手に区分され、居住地区を勝手に用意されて強制移住させられたりするなど、土地に関して極めて人権侵害的な扱いを受けていたと言える。この「土地の所有に関する問題」は、北海道地券発行条例から始まり、北海道旧土人保護法に至る流れで確定的となった。段階的に土地に関する法令が生まれていった背景にも、アイヌに対する日本人側の御都合主義的な考え方が反映されていると考えられている。
皇民化教育(こうみんかきょういく)は大日本帝国の支配地域において、その主権者とされた天皇を中心として大日本帝国への忠誠を要求した教化政策。日本民族への教化政策であると同時に、植民地および占領地域の諸民族(朝鮮人、台湾人、アイヌ人、琉球人、南洋群島や東南アジアの先住諸民族)に対して行われた強制的な同化・教化政策である。皇民化政策とも言う。
具体的内容
* 言語統制。すなわち、日本語標準語の公用語化、教育現場における琉球語、アイヌ語、朝鮮語、台湾語などの禁止など(例えば琉球では琉球語を学校内で使用した児童生徒は罰札(方言札)を首から下げさせられた)。家庭内においても標準語を使用することが奨励された。
* 教育勅語の「奉読」、奉安殿の設置などによる学校教育での天皇崇拝の強要、日の丸掲揚や君が代斉唱などを通じた日本人意識の植え付け。
* 台湾神社、朝鮮神宮等の建立や参拝の強制などの国家神道と宗教政策(日本の宗教参照)。軍人への敬礼や皇居への遥拝など。
これは メッセージ 149245 (jm_s1960 さん)への返信です.
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