日本に受け継がれた古代中国の精神①
投稿者: shoguncyama 投稿日時: 2007/05/30 12:30 投稿番号: [137981 / 196466]
■1.「そういう深いことを最初に考えたのは君の祖先じゃないのか」■
中国共産党の「反日」政策打倒を決心した石平氏には、もう
一つの転機があった。神戸大学大学院で社会学を学んでいた時、
フランスの近代社会学者エミール・デュルケームの「社会儀礼
論」がゼミのテーマとなった。それは、人々が共に儀礼を行う
ことによって、社会的所属意識を確認して、集団としての団結
を固める、という理論であった。
儀礼など単なる形式でしかない、と考えていた石氏にとって、
ディルケームの考え方は新鮮で、「さすがにフランスの社会学
者ですね。深いところを見ていると思います」と感想を述べた。
それを聞いて、指導教官は口許に含み笑いを浮かべながら、
言った。「何を言っているのか君、そういう深いことを最
初に考えたのは君の祖先じゃないのか」
意表をつかれて戸惑った石氏に、先生は「『礼の用は和を貴
しと為す』という言葉、君は知らないのかね」と言って、メモ
用紙に「礼之用、和為貴」と書いた。
そうか、分かった。あの論語の言葉じゃないか。20数年前
に祖父に叩き込まれたこれらの文字が、鮮明に浮かんできた。
■2.祖父の不思議な教育■
石氏の祖父は、中国成都市から遠く離れた田舎の村に住む漢
方医であった。石氏が4歳の時に文化大革命が始まり、大学の
教師であった両親は成都近郊の集団農場に追放されたので、や
むなく石少年を田舎の祖父母に預けたのである。
竹林に覆われた穏やかな丘、斜めに広がる一面の田んぼ、点
在する農家。7歳になって小学校に通うようになった石少年は、
天気の良い日には、仲間と午後の授業をさぼって、里山の中で
遊んだ。小学5年生で成都市の小学校に移って「毛沢東の小戦
士」として洗脳教育を受けるのとは正反対の、なつかしい「故
郷」がそこにはあった。
石少年が小学校4年生になった頃から、祖父は奇妙な教育を
始めた。一枚の便せんにいくつかの短い文言を書いて、ノート
に何百回も書き写せと言う。それらは「君子和而不同(君子は
和して同ぜず)」などと、明らかに現代語とは違った言葉であっ
た。誰の言葉か、どういう意味かも、祖父はいっさい教えてく
れない。ただ「書き写せ」との一言のみである。
さらに祖父は、学校ではこの事を絶対言ってはならない、ま
た書き写したノートは家の外に持ち出してはならない、と厳重
に注意した。そして、便せんと石少年が書き写したノートをす
ぐに回収してしまう。まるで悪いことでもしているような祖父
の行動が、石少年には不思議でならなかった。
ある夜、トイレに起きた石少年は、祖父が台所でしゃがんで
何かを燃やしているのを見つけた。目をこすってよく見ると、
それは自分が書き写したノートではないか。どうしてそんな事
をしなければならないのか、石少年にはまったく分からなかっ
た。
■3.祖父の「大罪」■
そのナゾが解けたのは、大学生になって、文化大革命の実態
を知った時だった。文化大革命は中国の伝統文化に対して「反
動的封建思想」のレッテルを貼って、徹底的に弾圧した。祖父
の行為は、もし見つかったら「反動思想をもって青少年の心を
毒する」大罪として、命にもかかわる糾弾を受けていただろう。
なぜ、そんな危険を冒してまで、祖父は自分に論語を教えよ
うとしたのか。大学の夏休みに田舎の村に帰った時、祖父はす
でに亡くなっていたが、その理由をようやく祖母から聞き出す
ことが出来た。
祖父は孫の石少年に、自分の医術をすべて伝授して、立派な
漢方医に育てるつもりだった。そして祖父の世代の医術は「仁
術」でなければならなかったので、その基礎教育として論語を
石少年に叩き込んだのである。
祖父の夢は叶わなかったが、何百回も書き写すことで、論語
の多くの言葉は石氏の記憶の中に刻まれた。論語の一節を耳に
しただけで、一連の語句は次から次へと、湧くように口元に上っ
てくる。
17年ぶりに日本人の指導教官から「礼之用、和為貴」と指
摘された時も、論語の言葉が即座に脳裏に蘇ったのである。
中国共産党の「反日」政策打倒を決心した石平氏には、もう
一つの転機があった。神戸大学大学院で社会学を学んでいた時、
フランスの近代社会学者エミール・デュルケームの「社会儀礼
論」がゼミのテーマとなった。それは、人々が共に儀礼を行う
ことによって、社会的所属意識を確認して、集団としての団結
を固める、という理論であった。
儀礼など単なる形式でしかない、と考えていた石氏にとって、
ディルケームの考え方は新鮮で、「さすがにフランスの社会学
者ですね。深いところを見ていると思います」と感想を述べた。
それを聞いて、指導教官は口許に含み笑いを浮かべながら、
言った。「何を言っているのか君、そういう深いことを最
初に考えたのは君の祖先じゃないのか」
意表をつかれて戸惑った石氏に、先生は「『礼の用は和を貴
しと為す』という言葉、君は知らないのかね」と言って、メモ
用紙に「礼之用、和為貴」と書いた。
そうか、分かった。あの論語の言葉じゃないか。20数年前
に祖父に叩き込まれたこれらの文字が、鮮明に浮かんできた。
■2.祖父の不思議な教育■
石氏の祖父は、中国成都市から遠く離れた田舎の村に住む漢
方医であった。石氏が4歳の時に文化大革命が始まり、大学の
教師であった両親は成都近郊の集団農場に追放されたので、や
むなく石少年を田舎の祖父母に預けたのである。
竹林に覆われた穏やかな丘、斜めに広がる一面の田んぼ、点
在する農家。7歳になって小学校に通うようになった石少年は、
天気の良い日には、仲間と午後の授業をさぼって、里山の中で
遊んだ。小学5年生で成都市の小学校に移って「毛沢東の小戦
士」として洗脳教育を受けるのとは正反対の、なつかしい「故
郷」がそこにはあった。
石少年が小学校4年生になった頃から、祖父は奇妙な教育を
始めた。一枚の便せんにいくつかの短い文言を書いて、ノート
に何百回も書き写せと言う。それらは「君子和而不同(君子は
和して同ぜず)」などと、明らかに現代語とは違った言葉であっ
た。誰の言葉か、どういう意味かも、祖父はいっさい教えてく
れない。ただ「書き写せ」との一言のみである。
さらに祖父は、学校ではこの事を絶対言ってはならない、ま
た書き写したノートは家の外に持ち出してはならない、と厳重
に注意した。そして、便せんと石少年が書き写したノートをす
ぐに回収してしまう。まるで悪いことでもしているような祖父
の行動が、石少年には不思議でならなかった。
ある夜、トイレに起きた石少年は、祖父が台所でしゃがんで
何かを燃やしているのを見つけた。目をこすってよく見ると、
それは自分が書き写したノートではないか。どうしてそんな事
をしなければならないのか、石少年にはまったく分からなかっ
た。
■3.祖父の「大罪」■
そのナゾが解けたのは、大学生になって、文化大革命の実態
を知った時だった。文化大革命は中国の伝統文化に対して「反
動的封建思想」のレッテルを貼って、徹底的に弾圧した。祖父
の行為は、もし見つかったら「反動思想をもって青少年の心を
毒する」大罪として、命にもかかわる糾弾を受けていただろう。
なぜ、そんな危険を冒してまで、祖父は自分に論語を教えよ
うとしたのか。大学の夏休みに田舎の村に帰った時、祖父はす
でに亡くなっていたが、その理由をようやく祖母から聞き出す
ことが出来た。
祖父は孫の石少年に、自分の医術をすべて伝授して、立派な
漢方医に育てるつもりだった。そして祖父の世代の医術は「仁
術」でなければならなかったので、その基礎教育として論語を
石少年に叩き込んだのである。
祖父の夢は叶わなかったが、何百回も書き写すことで、論語
の多くの言葉は石氏の記憶の中に刻まれた。論語の一節を耳に
しただけで、一連の語句は次から次へと、湧くように口元に上っ
てくる。
17年ぶりに日本人の指導教官から「礼之用、和為貴」と指
摘された時も、論語の言葉が即座に脳裏に蘇ったのである。
これは メッセージ 1 (messages_admin さん)への返信です.
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