小倉侍従日記:1 文藝春秋より
投稿者: sintyou5 投稿日時: 2007/05/06 22:23 投稿番号: [136371 / 196466]
昭和天皇孤独な君主の闘い
文藝春秋85:128ー141、2007
新発見「小倉侍従日記」を読み解く
半藤一利 阿川弘之
阿川
読み始めてすぐ引き込まれたのは、日独伊三国同盟について、いかに陛下が苦悩しておられたか、そのご様子ですね。小倉氏が侍従職に就いたのは昭和十四年五月三日ですが、そのわずか八日後、すぐ下の弟宮の秩父宮さんが来られるというので、陛下が「困つたな困つたな」と洩らされた、という記述がある。日独防共協定強化をめぐって何か意見を述べられるのだろうと心配されてるわけです。いきなり貴重な生の発言が出てくる。
半藤
当時、参謀本部参謀(戦争指導班)の陸軍中佐であった秩父宮が、三国同盟締結をたびたび進言して喧嘩になったことは、「昭和天皇独白録」でも語られていました。しかし、「独白録」は戦後になってから回顧したものですし、東京裁判への準備という一面もある。それに比べると、まだ右も左も分からない小倉侍従が書き留めた「困つたな困つたな」には、強いリアリティがあります。
僕は、「あの戦争が引き返せなくなった、ノーリターン・ポイントはどこでしょう」と聞かれると「三国同盟に決まってます」と答えます。ドイツの緒戦連勝に目がくらんだ日本は、「バスに乗り遅れるな」を合い言葉に、三国同盟に突進してしまう。そして英米との開戦やむなきに至るわけですから。国際情勢がよくわかっていた昭和天皇は秩父宮の進言に本当にお困りだったのでしょうね。
阿川
同感ですね。この小倉日記の読みどころ一つは、重心や軍人が拝謁した時間の長さが記してあることです。たとえば昭和十五年八月八日には、「松岡外務だいじん(三・三〇ー五・四五)」とある。八月二十日にも「松岡外務大臣、五・三〇ー七・〇五)。外相は所要三〇分の由なりしが、二時間近くを要し、御食事遅れせらる。」陛下がお立場上、じっと我慢してお聞きになるのをいいことに、松岡は三国同盟について長広舌を振るったんだと思いますよ。困った人だと思うねえ、ほんとに。
半藤
そうとう猛烈に説き伏せたんでしょうね。どんなに面白い講演でも、人間じっと聞いていられるのは一時間が限度だそうですよ。しかも、拝謁では椅子を賜らないのが普通ですから、松岡は二時間も突っ立って喋り続けた訳で、その執念たるやすさまじい。
阿川
すぐ椅子に腰掛けるのは近藤さんだけだったといいますからね。五摂家筆頭だけあって、陛下の前でもゆったり座るから、背もたれが暖まっていたって。
とにかく、松岡の長広舌は悪名高かった。僕は、横山一郎少々、最後の海軍武官で戦艦ミズーリ号の降伏調印にいった人ですが、彼からそのひどさを聞いたことがあります。終戦の数ヶ月前、横山少将は米内光政海軍大臣から「モスクワへ行ってくれ」と命じられる。しかも「理由は聞くな」なんだって。米内さんは松岡と対照的にものすごく口数が少なかった。
半藤
小倉日記を見ても、米内さんの拝謁時間はたいへん短いです。
阿川
米内さんの意図は要するに、ソ連を通じての和平交渉の一つの「石」として、横山少将にモスクワにいてほしいということだったんですね。そこで横山さんは、ソ連の現況やスターリンについて情報を収集しようとするんだけど、さしあたり松岡洋右しか思い当たらない。
半藤
松岡は、スターリンにあっさり裏切られたとはいえ、電撃外交で日ソ不可侵条約を結んだ男ですからね。
阿川
そのころ、松岡は胸を悪くして伊豆の長岡温泉で静養中だったので、軍務局にいた長男の松岡謙一郎主計大尉をとおして依頼したところ、やっと会ってくれた。ところが松岡は約一時間半、傍らの痰壺にぺっぺっと痰を吐きながら、例の如く、一方的に喋りまくったあげく、「疲れたからこれで失敬する」と引っ込んじゃった(笑)。横山少将は、知りたい情報を何も聞けなかったそうです。
続く。
新発見「小倉侍従日記」を読み解く
半藤一利 阿川弘之
阿川
読み始めてすぐ引き込まれたのは、日独伊三国同盟について、いかに陛下が苦悩しておられたか、そのご様子ですね。小倉氏が侍従職に就いたのは昭和十四年五月三日ですが、そのわずか八日後、すぐ下の弟宮の秩父宮さんが来られるというので、陛下が「困つたな困つたな」と洩らされた、という記述がある。日独防共協定強化をめぐって何か意見を述べられるのだろうと心配されてるわけです。いきなり貴重な生の発言が出てくる。
半藤
当時、参謀本部参謀(戦争指導班)の陸軍中佐であった秩父宮が、三国同盟締結をたびたび進言して喧嘩になったことは、「昭和天皇独白録」でも語られていました。しかし、「独白録」は戦後になってから回顧したものですし、東京裁判への準備という一面もある。それに比べると、まだ右も左も分からない小倉侍従が書き留めた「困つたな困つたな」には、強いリアリティがあります。
僕は、「あの戦争が引き返せなくなった、ノーリターン・ポイントはどこでしょう」と聞かれると「三国同盟に決まってます」と答えます。ドイツの緒戦連勝に目がくらんだ日本は、「バスに乗り遅れるな」を合い言葉に、三国同盟に突進してしまう。そして英米との開戦やむなきに至るわけですから。国際情勢がよくわかっていた昭和天皇は秩父宮の進言に本当にお困りだったのでしょうね。
阿川
同感ですね。この小倉日記の読みどころ一つは、重心や軍人が拝謁した時間の長さが記してあることです。たとえば昭和十五年八月八日には、「松岡外務だいじん(三・三〇ー五・四五)」とある。八月二十日にも「松岡外務大臣、五・三〇ー七・〇五)。外相は所要三〇分の由なりしが、二時間近くを要し、御食事遅れせらる。」陛下がお立場上、じっと我慢してお聞きになるのをいいことに、松岡は三国同盟について長広舌を振るったんだと思いますよ。困った人だと思うねえ、ほんとに。
半藤
そうとう猛烈に説き伏せたんでしょうね。どんなに面白い講演でも、人間じっと聞いていられるのは一時間が限度だそうですよ。しかも、拝謁では椅子を賜らないのが普通ですから、松岡は二時間も突っ立って喋り続けた訳で、その執念たるやすさまじい。
阿川
すぐ椅子に腰掛けるのは近藤さんだけだったといいますからね。五摂家筆頭だけあって、陛下の前でもゆったり座るから、背もたれが暖まっていたって。
とにかく、松岡の長広舌は悪名高かった。僕は、横山一郎少々、最後の海軍武官で戦艦ミズーリ号の降伏調印にいった人ですが、彼からそのひどさを聞いたことがあります。終戦の数ヶ月前、横山少将は米内光政海軍大臣から「モスクワへ行ってくれ」と命じられる。しかも「理由は聞くな」なんだって。米内さんは松岡と対照的にものすごく口数が少なかった。
半藤
小倉日記を見ても、米内さんの拝謁時間はたいへん短いです。
阿川
米内さんの意図は要するに、ソ連を通じての和平交渉の一つの「石」として、横山少将にモスクワにいてほしいということだったんですね。そこで横山さんは、ソ連の現況やスターリンについて情報を収集しようとするんだけど、さしあたり松岡洋右しか思い当たらない。
半藤
松岡は、スターリンにあっさり裏切られたとはいえ、電撃外交で日ソ不可侵条約を結んだ男ですからね。
阿川
そのころ、松岡は胸を悪くして伊豆の長岡温泉で静養中だったので、軍務局にいた長男の松岡謙一郎主計大尉をとおして依頼したところ、やっと会ってくれた。ところが松岡は約一時間半、傍らの痰壺にぺっぺっと痰を吐きながら、例の如く、一方的に喋りまくったあげく、「疲れたからこれで失敬する」と引っ込んじゃった(笑)。横山少将は、知りたい情報を何も聞けなかったそうです。
続く。
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