文化と合理性 2
投稿者: palmereldritch608 投稿日時: 2007/04/08 13:46 投稿番号: [134784 / 196466]
朝鮮人は犬を食べるといわれています。しかし日本人は食べません。法的根拠というのではなく、社会規範として、日本では犬を食べてはならないのです。仮に、ニューカマーの朝鮮人が、彼らの文化である食犬をわが国に持ち込んだとして、我々はそれを文化の相対性の名の下に許容するべきなのでしょうか?もし、そんなことをすれば、犬を食べてはならない、という我々の約束事としての文化は崩壊するしかありません。
犬くらい食べてもいいじゃないか、と言うのであれば、かつて世界の一部で公然と行われていた食人ならどうでしょうか?犬を食べてはならない。人肉も食べてはならない。というような我々の文化的約束事が崩壊した後に残るのは、犬や人間もまた滋養源である、という陰惨で、身も蓋もない合理的事実だけです。
文化は相対的でも、合理性は普遍的なのです。二点を結ぶ最短距離は直線である、という合理的真理は、世界中どこに行っても真理です。この合理性の前で、文化は儚い花に過ぎないかに見えます。しかし、それでも我々はこの文化を必要としています。我々が食犬や食人に、いいしれぬ嫌悪を感じるように、合理的根拠は無くとも、我々はその禁止を要求しているのです。
現在、我々は支那人を批判するに及んで、彼らの拝金主義を、批判しているのではないでしょうか?しかし、資本主義下における生活者の合理性とは、まさしくこの拝金主義なのです。我々が、もし彼らの拝金主義を批判しているのだとすれば、とりもなおさず、それは合理性とは別のところに存在するなんらかの文化を志向し、これを守ろうとしていることの証なのです。
しかし、現在、我々はあまりにも安易に文化を相対化しすぎているように見えます。文化の相対化が、結局はその衰退や崩壊を必然的に招くことは先に説明しました。文化の衰退とは、その文化のもつ強制力の衰退です。もし私が、今日の日本の教育崩壊の原因として、この文化的強制力の衰退を挙げるなら、かなりの人たちが賛同するはずです。しかし、外国人犯罪の増加の原因にも、これを挙げるならどうでしょうか?
少し考えれば分かることですが、教育の崩壊と外国人犯罪の増加は、完全に同根です。教育や躾けとは、いまだこの国の文化を体得していない子供達に対し、この国の文化を半ば強制的に教え、内面化させ、我々の社会にあるべき人の姿へと、子供たちを導く行為です。このことを、我々は再認識すべきですが、しかし、だとすれば、いまだこの国の文化を体得していない外国人に対しても、おなじ教育や躾けは向けられなければならないはずです。
昨今の日本の犯罪増加に比して、英国はいまだ低い犯罪発生率を誇っています。英国にも外国人は多いですが、それでも犯罪が少ないのだとすれば、英国では、外国人もまた英国人化する、という事実を裏付けているはずです。すなわち、英国の外国人は英国社会の文化的強制力によって、教育され、躾けられているのです。
先の支那の事例のように、かならずしも警察が文化的強制力というのではありません。確かに警察もその一部ですが、それは日常的には、我々の文化を破壊しかねない、彼らの文化的立ち振る舞いに対する、我々の非難であり、非難の視線なのです。その点において、我々は彼らに対して決して安易には寛容であってはならないのです。我々は、彼らを日本人化させなければなりません。必要とあれば、嫌なら帰れ、と彼らに対して、言わなければならないでしょう。
子供と同じく、外国人もまた我々の教育や躾けの対象であることを、我々は忘れてはならないのです。
犬くらい食べてもいいじゃないか、と言うのであれば、かつて世界の一部で公然と行われていた食人ならどうでしょうか?犬を食べてはならない。人肉も食べてはならない。というような我々の文化的約束事が崩壊した後に残るのは、犬や人間もまた滋養源である、という陰惨で、身も蓋もない合理的事実だけです。
文化は相対的でも、合理性は普遍的なのです。二点を結ぶ最短距離は直線である、という合理的真理は、世界中どこに行っても真理です。この合理性の前で、文化は儚い花に過ぎないかに見えます。しかし、それでも我々はこの文化を必要としています。我々が食犬や食人に、いいしれぬ嫌悪を感じるように、合理的根拠は無くとも、我々はその禁止を要求しているのです。
現在、我々は支那人を批判するに及んで、彼らの拝金主義を、批判しているのではないでしょうか?しかし、資本主義下における生活者の合理性とは、まさしくこの拝金主義なのです。我々が、もし彼らの拝金主義を批判しているのだとすれば、とりもなおさず、それは合理性とは別のところに存在するなんらかの文化を志向し、これを守ろうとしていることの証なのです。
しかし、現在、我々はあまりにも安易に文化を相対化しすぎているように見えます。文化の相対化が、結局はその衰退や崩壊を必然的に招くことは先に説明しました。文化の衰退とは、その文化のもつ強制力の衰退です。もし私が、今日の日本の教育崩壊の原因として、この文化的強制力の衰退を挙げるなら、かなりの人たちが賛同するはずです。しかし、外国人犯罪の増加の原因にも、これを挙げるならどうでしょうか?
少し考えれば分かることですが、教育の崩壊と外国人犯罪の増加は、完全に同根です。教育や躾けとは、いまだこの国の文化を体得していない子供達に対し、この国の文化を半ば強制的に教え、内面化させ、我々の社会にあるべき人の姿へと、子供たちを導く行為です。このことを、我々は再認識すべきですが、しかし、だとすれば、いまだこの国の文化を体得していない外国人に対しても、おなじ教育や躾けは向けられなければならないはずです。
昨今の日本の犯罪増加に比して、英国はいまだ低い犯罪発生率を誇っています。英国にも外国人は多いですが、それでも犯罪が少ないのだとすれば、英国では、外国人もまた英国人化する、という事実を裏付けているはずです。すなわち、英国の外国人は英国社会の文化的強制力によって、教育され、躾けられているのです。
先の支那の事例のように、かならずしも警察が文化的強制力というのではありません。確かに警察もその一部ですが、それは日常的には、我々の文化を破壊しかねない、彼らの文化的立ち振る舞いに対する、我々の非難であり、非難の視線なのです。その点において、我々は彼らに対して決して安易には寛容であってはならないのです。我々は、彼らを日本人化させなければなりません。必要とあれば、嫌なら帰れ、と彼らに対して、言わなければならないでしょう。
子供と同じく、外国人もまた我々の教育や躾けの対象であることを、我々は忘れてはならないのです。
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