文化と合理性 1
投稿者: palmereldritch608 投稿日時: 2007/04/08 13:46 投稿番号: [134783 / 196466]
世界に散在する各文化は相対的である。というのは、現代日本人ならたいてい知っていることです。なるほど、世界の各文化を採取して歩く人類学者のような視点を持つ事は、決して無意味なこととは言えませんが、しかし、そんな人類学者ですら、個人的には何らかの単一の文化圏に属しており、この文化的規範に従って生きています。彼が自らが属する文化を相対化する必要に迫られるのは、様々な異文化の社会にフィールドワークする時であって、日常的に家族や友人と接するときではありません。たとえ彼が裸族の研究家であり、自国の文化と裸族の文化を相対化し、これらが等価であると看做しているのだとしても、自国に帰ってまで、彼が裸で生活しているわけではありませんし、そんなことが許されるわけでもありません。
また、ユークリッド幾何学は非ユークリッド幾何学によって相対化されています。しかし、建築物や様々な工業製品は、もちろんユークリッド幾何学に基づいて設計されています、平行線に関する第五公準を疑い、「平行線が一本も描けない」あるいは「一点を通過する平行線が無数に描けてしまう」設計屋など、この世に一人もいません。第五公準の証明不能性は確かに論理的真理かもしれませんが、彼の職務においてはそれはいささかも正しくは無いのです。
つまり、文化の相対化は、人が外国やその文化の外部にあるときは、たしかに意味を持ちますが、文化の内部にそれを持ち込む事はきわめて有害であることが多いのです。文化とは様々な禁止や、その強制力によって成立しているからです。
ひとつ、断っておきますが、ここで私が文化といっているのは、約束事としての文化であって、所謂テクノロジーのことではありません。テクノロジーは文化ではなく、合理性の問題です。そして、文化と合理性は矛盾することが多いのです。
かつて私の同僚は上海に出張中、たまたま、道路で彼の前を歩いていた現地の老婆が、彼の前で急にうずくまってしまい、つい、彼女を跨ぎ越す、という“事件”を起こしました。支那では人に跨がれるという事は、たいへんな屈辱であるらしいのです。たしかに、韓信のまたくぐりの故事を知るなら頷けますが、結局彼は警察に連行され、会社が罰金を支払い釈放されました。
人を跨いではならない、という支那の文化に、べつだん合理的根拠などありません。男がスカートをはかない、という文化に合理的根拠など無いのと同様です。文化とは、合理的には説明しがたい場所で、我々がことさらに意識することなく選択した約束事です。
したがって、私の同僚の事例のように、文化は外国人など、その文化圏に属しない人間にとっては、時として不合理で理不尽な強制力となって現れます。しかし、それでも、この支那の“理不尽”な文化を、彼は相対的にせよ許容するべきなのです。なぜなら、文化の相対化とはその国の国民ではなく、その国を訪れる外国人にこそ、要求される視点だからです。
また、ユークリッド幾何学は非ユークリッド幾何学によって相対化されています。しかし、建築物や様々な工業製品は、もちろんユークリッド幾何学に基づいて設計されています、平行線に関する第五公準を疑い、「平行線が一本も描けない」あるいは「一点を通過する平行線が無数に描けてしまう」設計屋など、この世に一人もいません。第五公準の証明不能性は確かに論理的真理かもしれませんが、彼の職務においてはそれはいささかも正しくは無いのです。
つまり、文化の相対化は、人が外国やその文化の外部にあるときは、たしかに意味を持ちますが、文化の内部にそれを持ち込む事はきわめて有害であることが多いのです。文化とは様々な禁止や、その強制力によって成立しているからです。
ひとつ、断っておきますが、ここで私が文化といっているのは、約束事としての文化であって、所謂テクノロジーのことではありません。テクノロジーは文化ではなく、合理性の問題です。そして、文化と合理性は矛盾することが多いのです。
かつて私の同僚は上海に出張中、たまたま、道路で彼の前を歩いていた現地の老婆が、彼の前で急にうずくまってしまい、つい、彼女を跨ぎ越す、という“事件”を起こしました。支那では人に跨がれるという事は、たいへんな屈辱であるらしいのです。たしかに、韓信のまたくぐりの故事を知るなら頷けますが、結局彼は警察に連行され、会社が罰金を支払い釈放されました。
人を跨いではならない、という支那の文化に、べつだん合理的根拠などありません。男がスカートをはかない、という文化に合理的根拠など無いのと同様です。文化とは、合理的には説明しがたい場所で、我々がことさらに意識することなく選択した約束事です。
したがって、私の同僚の事例のように、文化は外国人など、その文化圏に属しない人間にとっては、時として不合理で理不尽な強制力となって現れます。しかし、それでも、この支那の“理不尽”な文化を、彼は相対的にせよ許容するべきなのです。なぜなら、文化の相対化とはその国の国民ではなく、その国を訪れる外国人にこそ、要求される視点だからです。
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