増補版、支那禁圧問答集2
投稿者: palmereldritch608 投稿日時: 2007/03/25 20:53 投稿番号: [134228 / 196466]
9
Q)名は本人のもので、本人の権利だ、と言われたら
A)固有名詞といえども、言語であることに変わりはなく、言語が個人のものであるわけがない。もし、名が本人の権利であるなら、蔑称などこの世には存在しないはずだ。その呼称が成立するか否かは、ひとえに、名を呼ぶ人達がそれを用いて呼称するか否かにかかっている。呼称が成立するためには、それを呼ぶ人と、それによって呼ばれる人とまたパテント問題を引き合いに出す者もいるが、社名や商標のパテントが有する権利とは、それが、会社や個人の所有物になることを意味するものではなく、その社名や商標が、会社や個人を表し、それを用いて商売する権利を有する、と考えるのが正しい。個人に対し、私生活でも勝手に使用させない権利があるわけではなく、ましてや他人にその商標や社名以外で呼称させない権利など、もっとあるわけが無い。
10
Q)「支那」と呼んでみろ、呼べないだろう。と言われたら
A)「支那」呼称問題とは「支那」と言ったとたんに大学教授が閉職に追い込まれ、我々の仕事にも支障を来たしかねない現状こそを問題にしているのであって、この様な主張はなんら意味をなしていない。「支那」と呼べないから、支那禁圧は認められるべきだ、という主張は、ナチ体制化のドイツではヒトラーへの批判はタブーであったから、ヒトラーは正しい、と言っているのと同じだ。
11
Q)日本も支那も漢字を使用する。同一文字圏では、異なる表記は許されない。と言われたら。
A)世界にそんな約束事や慣例は無い。例、ドイツ / Deutschland(独語) → Germany(英語)
12
Q)支那は死語だ。と言われたら
そもそも何を持ってその語が死語だと言えるのだろうか?支那禁圧論者も説明できないはずだ。一般的には使用されない語が死語だというのなら、学術用語や専門用語は死語ということになるが、勿論これらは死語ではない。確か、白川静は死ぬまで「支那学」と言っていたはずであるが、ならば、控え目に見積もっても、「支那」は専門用語としては生き残っていることになる。白川静がなんと言おうと、支那学は現在は中国学と言われるのが普通だ。というかも知れぬが、それなら、マルクスの価値形態論は、一部では価値形式論とも呼ばれている。なら、価値形式論という名称は死語なのだろうか?そうではあるまい。
さらに言うなら、一般的にも「支那」は数こそ少ないものの現在も流通している。現実に私の知る老人は今なお「支那」と呼んでいる。どのように考えても「支那」は死語とは言えないはずだ。
学術用語や専門用語を一般語化することは不自然、との主張も聞かれそうだが、しかしながら、すこしも“不自然”などとは言えないのだ。
例えば今日日本人がしばしば口にする、「トラウマ」なるフロイド用語だが、私の記憶では、80年代まで一部のフロイド読者を別にすれば、「トラウマ」などという言葉は、殆どの日本人は知らなかった。それが、今日では一般語化しているのだ。
そもそも、「支那」は死語になりやすい俗語ではない。また、「鋳掛屋」や「人絹」といった語の対象がこの世から消えてしまった語というわけでもない。通常は死語とはなりにくい語なのだ。
「支那」が一般的に使用されなくなった事情は、多くに知られているよう、占領下の日本の特殊な問題であった。降伏した国には、一応といえど、戦勝国たる中華民国の意向を無視できなかったというだけの事情だ。つまり、「支那」は死語ではなく禁圧された言葉というに過ぎない。しかし、占領を脱却してから60年の時が経った今においてまで、国際的な、そして人間にとって普遍的とも言える慣例を無視した、支那禁圧という占領政策を引きずることはきわめて不自然なことなのだ。
また、仮に「支那」が死語であったとして、だからどうだと言うのだろう?死語が復活して何が悪いのだろうか?禁圧派はまったく説明できまい。
支那禁圧論争の、論点をまとめてみました。皆様のご協力を感謝いたします。これからも改訂していきたいと思いますので、ご意見、ご批判賜れば幸いです。
Q)名は本人のもので、本人の権利だ、と言われたら
A)固有名詞といえども、言語であることに変わりはなく、言語が個人のものであるわけがない。もし、名が本人の権利であるなら、蔑称などこの世には存在しないはずだ。その呼称が成立するか否かは、ひとえに、名を呼ぶ人達がそれを用いて呼称するか否かにかかっている。呼称が成立するためには、それを呼ぶ人と、それによって呼ばれる人とまたパテント問題を引き合いに出す者もいるが、社名や商標のパテントが有する権利とは、それが、会社や個人の所有物になることを意味するものではなく、その社名や商標が、会社や個人を表し、それを用いて商売する権利を有する、と考えるのが正しい。個人に対し、私生活でも勝手に使用させない権利があるわけではなく、ましてや他人にその商標や社名以外で呼称させない権利など、もっとあるわけが無い。
10
Q)「支那」と呼んでみろ、呼べないだろう。と言われたら
A)「支那」呼称問題とは「支那」と言ったとたんに大学教授が閉職に追い込まれ、我々の仕事にも支障を来たしかねない現状こそを問題にしているのであって、この様な主張はなんら意味をなしていない。「支那」と呼べないから、支那禁圧は認められるべきだ、という主張は、ナチ体制化のドイツではヒトラーへの批判はタブーであったから、ヒトラーは正しい、と言っているのと同じだ。
11
Q)日本も支那も漢字を使用する。同一文字圏では、異なる表記は許されない。と言われたら。
A)世界にそんな約束事や慣例は無い。例、ドイツ / Deutschland(独語) → Germany(英語)
12
Q)支那は死語だ。と言われたら
そもそも何を持ってその語が死語だと言えるのだろうか?支那禁圧論者も説明できないはずだ。一般的には使用されない語が死語だというのなら、学術用語や専門用語は死語ということになるが、勿論これらは死語ではない。確か、白川静は死ぬまで「支那学」と言っていたはずであるが、ならば、控え目に見積もっても、「支那」は専門用語としては生き残っていることになる。白川静がなんと言おうと、支那学は現在は中国学と言われるのが普通だ。というかも知れぬが、それなら、マルクスの価値形態論は、一部では価値形式論とも呼ばれている。なら、価値形式論という名称は死語なのだろうか?そうではあるまい。
さらに言うなら、一般的にも「支那」は数こそ少ないものの現在も流通している。現実に私の知る老人は今なお「支那」と呼んでいる。どのように考えても「支那」は死語とは言えないはずだ。
学術用語や専門用語を一般語化することは不自然、との主張も聞かれそうだが、しかしながら、すこしも“不自然”などとは言えないのだ。
例えば今日日本人がしばしば口にする、「トラウマ」なるフロイド用語だが、私の記憶では、80年代まで一部のフロイド読者を別にすれば、「トラウマ」などという言葉は、殆どの日本人は知らなかった。それが、今日では一般語化しているのだ。
そもそも、「支那」は死語になりやすい俗語ではない。また、「鋳掛屋」や「人絹」といった語の対象がこの世から消えてしまった語というわけでもない。通常は死語とはなりにくい語なのだ。
「支那」が一般的に使用されなくなった事情は、多くに知られているよう、占領下の日本の特殊な問題であった。降伏した国には、一応といえど、戦勝国たる中華民国の意向を無視できなかったというだけの事情だ。つまり、「支那」は死語ではなく禁圧された言葉というに過ぎない。しかし、占領を脱却してから60年の時が経った今においてまで、国際的な、そして人間にとって普遍的とも言える慣例を無視した、支那禁圧という占領政策を引きずることはきわめて不自然なことなのだ。
また、仮に「支那」が死語であったとして、だからどうだと言うのだろう?死語が復活して何が悪いのだろうか?禁圧派はまったく説明できまい。
支那禁圧論争の、論点をまとめてみました。皆様のご協力を感謝いたします。これからも改訂していきたいと思いますので、ご意見、ご批判賜れば幸いです。
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/ffccf4x78_1/134228.html