封印された過去−日本人慰安婦たち 後編三
投稿者: jm_s1960 投稿日時: 2007/03/14 15:57 投稿番号: [133599 / 196466]
冬の白い寂寞とした空の下、Iさんが住む市営住宅の灰色の棟が連なって見える。
杖をつき、高血圧症で病院通いが欠かせないというIさんを自宅まで聞き取りに同行した三名で送っていった。
この元兵士は、帰還後、故郷で釣具店を経営し、生計をたててきたという。同じ地区出身の「まさこさん」、「はるこさん」もまた、部落に戻っていた。
建てられてから何十年の歳月を経て、老廃したコンクリートの棟が立ち並ぶ団地の中を老人の手を引き、私はゆっくりと歩いていった。
戦後、結婚し、養子を迎えた「まさこさん」に一度だけ、Iさんは出会ったことがあるという。いったい、いつ、どこで、どのような経緯で「まさこさん」と言葉を交わしたのか、老人の記憶は曖昧だった。
Iさんは、多分、今と変わらないような野太い声で、
「子どものできんような体にされて、金をもろうたか。」
と頭ごなしに問い質したのではないだろうか。それに対して、「まさこさん」は、
「誰に言っても同じこと。子どもに知られたら生きておられん。子どものためにほっといてくれ。」
と答えたそうだ。
慰安婦とされた女性の多くが、生殖器を悪くして子どものできにくくなっていることは事実である。どうしても子どもが欲しい場合は、「まさこさん」のように養子を迎えたりしただろう。実子として手塩にかけて育てた子どもや家族の者に、まず自分の過去を知られたくないという思い、そして、何よりも養子であることを明かしたくないという二重の煩悶があったと想像できる。
しかし、その時の彼女の苦渋の表情や内面の真実を誰も読み取ることなどできないだろう。
私もIさんの記憶の中で生きている、一面的に捉えられた彼女の肖像のごくわずかな片鱗しかここに留めおくことができない。
「まさこさん」は、K市内の総合病院で既に亡くなっていた。過去は、封印されたままであり、一人の女性の胸をかきむしられるような慟哭も怨嗟も白い虚空に葬られていった。
今は、ただ何も語らない暗い二つの眼窩が土の中に眠っている。
民族、国家、戦争、性、部落差別…あらゆる問題が交叉する断層に身を置いたため、彼女たちの被害は、捨て置かれた。
しかし、戦前の被差別部落の閉塞した空間の中で、苛酷な差別と貧困に曝され、充分な教育を受ける機会も与えられないまま幼くして日本軍の性奴隷とされた彼女たちと、当時、日本人としての権利を充分に享受し得た人々の責任とを同列に付してはならない。
彼女たちの存在を懊悩を、これ以上、黙殺していてはならない。既に戦後、六十年近い月日が経過しようとしている。
この国の明るく糊塗された何気ない日常の光景の深部には、未だに何一つ変わらず、分け入ることのできなかった闇が、揺らぎなく横たわっている。
<完了>
http://www.kanpusaiban.net/kanpu_news/no-44/hirao%2044.htm
http://www.kanpusaiban.net/kanpu_news/no-45/hirao-45.htm
杖をつき、高血圧症で病院通いが欠かせないというIさんを自宅まで聞き取りに同行した三名で送っていった。
この元兵士は、帰還後、故郷で釣具店を経営し、生計をたててきたという。同じ地区出身の「まさこさん」、「はるこさん」もまた、部落に戻っていた。
建てられてから何十年の歳月を経て、老廃したコンクリートの棟が立ち並ぶ団地の中を老人の手を引き、私はゆっくりと歩いていった。
戦後、結婚し、養子を迎えた「まさこさん」に一度だけ、Iさんは出会ったことがあるという。いったい、いつ、どこで、どのような経緯で「まさこさん」と言葉を交わしたのか、老人の記憶は曖昧だった。
Iさんは、多分、今と変わらないような野太い声で、
「子どものできんような体にされて、金をもろうたか。」
と頭ごなしに問い質したのではないだろうか。それに対して、「まさこさん」は、
「誰に言っても同じこと。子どもに知られたら生きておられん。子どものためにほっといてくれ。」
と答えたそうだ。
慰安婦とされた女性の多くが、生殖器を悪くして子どものできにくくなっていることは事実である。どうしても子どもが欲しい場合は、「まさこさん」のように養子を迎えたりしただろう。実子として手塩にかけて育てた子どもや家族の者に、まず自分の過去を知られたくないという思い、そして、何よりも養子であることを明かしたくないという二重の煩悶があったと想像できる。
しかし、その時の彼女の苦渋の表情や内面の真実を誰も読み取ることなどできないだろう。
私もIさんの記憶の中で生きている、一面的に捉えられた彼女の肖像のごくわずかな片鱗しかここに留めおくことができない。
「まさこさん」は、K市内の総合病院で既に亡くなっていた。過去は、封印されたままであり、一人の女性の胸をかきむしられるような慟哭も怨嗟も白い虚空に葬られていった。
今は、ただ何も語らない暗い二つの眼窩が土の中に眠っている。
民族、国家、戦争、性、部落差別…あらゆる問題が交叉する断層に身を置いたため、彼女たちの被害は、捨て置かれた。
しかし、戦前の被差別部落の閉塞した空間の中で、苛酷な差別と貧困に曝され、充分な教育を受ける機会も与えられないまま幼くして日本軍の性奴隷とされた彼女たちと、当時、日本人としての権利を充分に享受し得た人々の責任とを同列に付してはならない。
彼女たちの存在を懊悩を、これ以上、黙殺していてはならない。既に戦後、六十年近い月日が経過しようとしている。
この国の明るく糊塗された何気ない日常の光景の深部には、未だに何一つ変わらず、分け入ることのできなかった闇が、揺らぎなく横たわっている。
<完了>
http://www.kanpusaiban.net/kanpu_news/no-44/hirao%2044.htm
http://www.kanpusaiban.net/kanpu_news/no-45/hirao-45.htm
これは メッセージ 133597 (jm_s1960 さん)への返信です.
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