封印された過去−日本人慰安婦たち 後編二
投稿者: jm_s1960 投稿日時: 2007/03/14 15:42 投稿番号: [133597 / 196466]
アンボンの港は
夜霧がふかい
ふかいはずだよ
軍服濡らす
濡れた軍服は どなたが乾かす 立つや かもめの三本マスト
その歌をもし、生きて日本に帰ることがあったなら、必ず覚えておいてくれと彼女は、Iさんに頼んだ。
結果として彼は、この日本人慰安婦たちの帰還に少なからず尽力することになる。
軍隊というのは、私たちが想像する以上に一人一人の兵士の来歴から行動まで全てを把握、管理していた。当時、七年兵の万年兵長であったIさんは、慰安婦の帰還に関する内容を含んだ指令と推測される四通の手紙を大阪出身の楠本副官から直々に公用証を付けて、慰安所へ届けるよう命令されている。
どういう経緯があったのか、慰安所には中将や憲兵隊の者が来ていた。四通目の手紙の文面に眼を通した憲兵は、それまでの態度を一変させ、伝令役に過ぎないIさんに「ありがとうございます」と敬礼したという。紙面の内容をIさんは、知らない。
多くの日本人慰安婦は、名目は看護婦として日本内地に帰っていったとIさんは、証言する。Iさんの所属していた第Ⅱ大隊も1944年8月4日にアンボンを出発し、セラム島に向っている。
しかし、戦局の悪化したアンボンの地から日本人慰安婦を本国に戻した後、日本軍は、先に言及したような更なる暴挙を重ねていった。
Iさん自身は、1946年6月15日、インドネシアのスラバヤから和歌山に上陸し、帰還を果たした。(戦記連隊略歴によれば、第Ⅱ大隊は1946年6月14日和歌山県田辺港帰着、復員完結と記)
しかし、やっと故郷に戻ることができたというのに、そこには衝撃的な事実が待っていた。家に帰ってまず帰還の報告をするため、仏壇に手を合わせると、なんと妹の写真も仏間に飾られてあった。驚いて母に問い質すと、妹の一人も看護婦の仕事と騙されて南方で慰安婦にされ、猫いらず(殺鼠剤)を飲んで自殺して果てたという。
骨も戻ってこなかった。老人は、この事実を思い出すと、未だに死んでも死に切れない思いに捉われると語った。
実の妹を含めた犠牲者をいったい誰が連れていって、誰が利権を得ていたのか、真相を知りたいと願い、復員後、市役所の援護局などにも出向いてみたが、まったく相手にされなかったそうだ。
結局、Iさんの周辺で実の妹を含め、三人もの女性が、日本軍慰安婦制度の犠牲者となっている。
この元兵士は、二回目の聞き取りの際も初年兵の時に受けた暴行やいじめの話を繰り返したが、ざわついたファミリーレストランの一角で、急に太い濁声を押し殺して、周囲を訝るかのように指をそっと四本立ててみせた。私は、その意味をすぐには呑み込めなかった。
四つ立てた指は、「四つ足」、すなわち被差別部落を現す隠語を指していた。
初年兵に対するリンチは、日本軍の体質から派生し、恒常的に存在したものと考えられたが、Iさんが受けた暴力には、それを凌駕する理不尽さが隠されていた。
厚生係の兵士が指摘してわかったことだが、Iさんの名簿には赤線が入っているとのことだった。赤線の持つ意味を厚生係の者も知ってか知らずか、Iさんには告げなかった。
兄は、兵士として狩り出され、被差別部落出身であるが故に軍隊内で凄まじいリンチや苛めに遭う。しかし、反面、日本軍の一兵卒として殺戮や強姦を中国やフィリピンの村々で平然と行ない、慰安所にも出入りする。一方、妹は、戦争・国家・貧困・部落・女性―幼い少女の身で担うには担いきれない様々な円環の連鎖の果てに性奴隷とされ、自ら命を絶ってしまった。
把握しようとしても把握することのできない、戦争というもの、そして人間が編み出した差別構造というものの、混沌とした言語に絶する形相が浮かび上がってくる。
思えば、この眼前の老人も軍隊内や戦後の社会の中で、一定の地位や名誉、財産を得ていたならば、戦後六十年も経ってから私たちの前に出てきて慰安婦に関する話をすることもなかっただろう。
もっと言えば、この社会の差別構造の中に一生を陥れられていたため、恨みや憤りの熾火を燃やし続けてこれたのかもしれない。
続く
濡れた軍服は どなたが乾かす 立つや かもめの三本マスト
その歌をもし、生きて日本に帰ることがあったなら、必ず覚えておいてくれと彼女は、Iさんに頼んだ。
結果として彼は、この日本人慰安婦たちの帰還に少なからず尽力することになる。
軍隊というのは、私たちが想像する以上に一人一人の兵士の来歴から行動まで全てを把握、管理していた。当時、七年兵の万年兵長であったIさんは、慰安婦の帰還に関する内容を含んだ指令と推測される四通の手紙を大阪出身の楠本副官から直々に公用証を付けて、慰安所へ届けるよう命令されている。
どういう経緯があったのか、慰安所には中将や憲兵隊の者が来ていた。四通目の手紙の文面に眼を通した憲兵は、それまでの態度を一変させ、伝令役に過ぎないIさんに「ありがとうございます」と敬礼したという。紙面の内容をIさんは、知らない。
多くの日本人慰安婦は、名目は看護婦として日本内地に帰っていったとIさんは、証言する。Iさんの所属していた第Ⅱ大隊も1944年8月4日にアンボンを出発し、セラム島に向っている。
しかし、戦局の悪化したアンボンの地から日本人慰安婦を本国に戻した後、日本軍は、先に言及したような更なる暴挙を重ねていった。
Iさん自身は、1946年6月15日、インドネシアのスラバヤから和歌山に上陸し、帰還を果たした。(戦記連隊略歴によれば、第Ⅱ大隊は1946年6月14日和歌山県田辺港帰着、復員完結と記)
しかし、やっと故郷に戻ることができたというのに、そこには衝撃的な事実が待っていた。家に帰ってまず帰還の報告をするため、仏壇に手を合わせると、なんと妹の写真も仏間に飾られてあった。驚いて母に問い質すと、妹の一人も看護婦の仕事と騙されて南方で慰安婦にされ、猫いらず(殺鼠剤)を飲んで自殺して果てたという。
骨も戻ってこなかった。老人は、この事実を思い出すと、未だに死んでも死に切れない思いに捉われると語った。
実の妹を含めた犠牲者をいったい誰が連れていって、誰が利権を得ていたのか、真相を知りたいと願い、復員後、市役所の援護局などにも出向いてみたが、まったく相手にされなかったそうだ。
結局、Iさんの周辺で実の妹を含め、三人もの女性が、日本軍慰安婦制度の犠牲者となっている。
この元兵士は、二回目の聞き取りの際も初年兵の時に受けた暴行やいじめの話を繰り返したが、ざわついたファミリーレストランの一角で、急に太い濁声を押し殺して、周囲を訝るかのように指をそっと四本立ててみせた。私は、その意味をすぐには呑み込めなかった。
四つ立てた指は、「四つ足」、すなわち被差別部落を現す隠語を指していた。
初年兵に対するリンチは、日本軍の体質から派生し、恒常的に存在したものと考えられたが、Iさんが受けた暴力には、それを凌駕する理不尽さが隠されていた。
厚生係の兵士が指摘してわかったことだが、Iさんの名簿には赤線が入っているとのことだった。赤線の持つ意味を厚生係の者も知ってか知らずか、Iさんには告げなかった。
兄は、兵士として狩り出され、被差別部落出身であるが故に軍隊内で凄まじいリンチや苛めに遭う。しかし、反面、日本軍の一兵卒として殺戮や強姦を中国やフィリピンの村々で平然と行ない、慰安所にも出入りする。一方、妹は、戦争・国家・貧困・部落・女性―幼い少女の身で担うには担いきれない様々な円環の連鎖の果てに性奴隷とされ、自ら命を絶ってしまった。
把握しようとしても把握することのできない、戦争というもの、そして人間が編み出した差別構造というものの、混沌とした言語に絶する形相が浮かび上がってくる。
思えば、この眼前の老人も軍隊内や戦後の社会の中で、一定の地位や名誉、財産を得ていたならば、戦後六十年も経ってから私たちの前に出てきて慰安婦に関する話をすることもなかっただろう。
もっと言えば、この社会の差別構造の中に一生を陥れられていたため、恨みや憤りの熾火を燃やし続けてこれたのかもしれない。
続く
これは メッセージ 133596 (jm_s1960 さん)への返信です.
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