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封印された過去−日本人慰安婦たち 後編一

投稿者: jm_s1960 投稿日時: 2007/03/14 15:40 投稿番号: [133596 / 196466]
平尾弘子

  アンボンの滝の流れる近くに在った慰安所には、日本人の他、朝鮮人、中国人、タイ人の女性もいたが、この人は、日本人慰安婦の境遇にことの他、同情を寄せていた。話の合間にもIさんは、何度か、
「政府もあんたがたも韓国人の慰安婦の支援ばかりして何故、日本人のことをほおっておくのか。」
と、激しい口調で言い募った。謝罪と補償を求めて名乗り出た日本人がいないからだと言っても、老人は聞こうとはしない。
  思えば、戦後六十年も経ちながら被害者が名乗り出られないような状況が続くこの社会の在りかたとは何なのだろう。真相も責任も全てがうやむやのままで、国が膨大な資料を隠匿したままにしていること…近代日本の公娼制の問題点を共有することもなく、また、慰安婦は、全て元々、売春に携っていたというような誤った認識が広く流布されている状況を放置していること…これらが相俟って、硬直した社会認識を変革できずにいるのだ。
  そして、老人の話を聞くうちに、何故、彼がこれ程までに日本人慰安婦の問題にこだわるのか、理由が明らかになってくる。

  1944年7月、スラバヤからアンボンに転属したIさんは、兵舎にいても寂しいから外出しないかと同僚に誘われ、慰安所に行った。「うめまる」と名乗る十六か十七歳の日本人慰安婦が出てきた。どう見ても子どもにしか見えず、相手にしなかったところ、あどけない顔の「うめまる」は、ふて腐れたように自分を抱けと迫ったという。
  この間の事情は、多分にIさんの脚色があるような気がする。
  そうこうするうちに「うめまる」とけんかになり、騒ぎを聞きつけ、そこへ姉さん格の紅い友禅の着物を着た女が現れた。慰安所のような所では、こういった騒ぎは日常茶飯事であったろうから、手慣れた年長の者が仲裁に入ることになっていたのだろう。
  しかし、忽然と現れたこの女は、何を思ったのか、彼にいきなり故郷の九州の言葉で話しかけてきた。
「兄さん、めずらしか、私やが。」
逆上していた男は、事情が呑み込めず、
「お前に兄さんと言われる筋合いはなか。」
と怒鳴りつけたそうだ。女の方は、冷静で、
「七年も会わんから、わからんのやろう。『石原の手切れの娘』(文中仮名)と言ったらわかるやろう。」
と平然と言い放った。
  その時、始めて眼前の紅い友禅の女が、親戚の娘、「まさこさん」であることに気づいたそうだ。「まさこさん」の父親が海南島に軍属で行って、手を負傷したため、『手切れの石原』と通称されていた。無理もない。Iさんが入隊した時、この女性は、まだ幼い少女であり、それから七年近い月日が流れていた。その間に彼女の身に起こったことを考えれば、変貌ぶりも窺える筈だ。
  驚いたことにその慰安所には、「まさこさん」だけでなく、妹で当時十六歳位の「はるこさん」も連れてこられていた。姉妹で同じ慰安所に入っていたのだ。
  「まさこさん」と「はるこさん」が、同郷のしかも親戚の娘でもあることから、Iさんは、慰安所の日本人慰安婦と急速に親しくなっていった。
  人間の記憶というのは、ある部分、極めて鮮明に昨日のことのように残影が凝集されていく。日本人慰安婦たちと親しくなったIさんは、ある時、将校が土産として慰安婦に与えた干し鰯二十匹をもらったそうだ。兵舎に戻ってから誰に何匹ずつ、分け与えたかを今も正確に覚えていた。
  日本人慰安婦にまもなく、自分の所属部隊がセラムに移転すると告げると、女たちは、泣いて連れて逃げてくれ、日本に帰りたいとIさんに懇願した。しかし、七名もの女性を連れて見知らぬ南方の地のどこに逃げる場所があるだろうか。また、捕まって一番最初に憲兵に殺されるのは、自分でもある。日本に戻ることができるように話をつけるからと、なんとか女性たちをなだめたという。
  「うめまる」と名乗っていた幼い慰安婦は、歌を作っていた。

続く

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