封印された過去−日本人慰安婦 (前編)一
投稿者: jm_s1960 投稿日時: 2007/03/14 15:19 投稿番号: [133591 / 196466]
平尾弘子
「うめまる」、「うめか」、「はるこ」、「まさこ」…九十歳近い老人は、はっきりとその女性たちの名前を記憶していた。
六十年前、現在のインドネシア、アンボンで旧日本軍の慰安所にいた日本人女性の名である。
陸軍の山砲兵第四十八連隊に所属していたという旧日本軍兵士の老人は、慰安婦問題の立法解決を考える集会の新聞記事を読んで連絡してきた。
戦友会のかつての同僚たちは、慰安所にまつわる話に触れることを快く思わないだろうが、しかし、死ぬ前にどうしても語っておきたいことがあると杖をつきながら不自由な体をおして、訪ねてきた。補聴器を付けていたが、こちらの話は、ほとんど聴こえておらず、会話がなかなか成立しない。老人は、耳が遠いため、野太い声で過去の記憶を行きつ戻りつしながら話をしていった。
封印されてきた戦争の実相にわずかでも迫ってみたいと願っても、戦後六十年という歳月の長さと、残された時間が限られていることを改めて実感する。
この元日本軍兵士、Iさん(本人の希望により匿名)は、1939年(昭和14年)に入隊し、台湾から中国海南島、福建省、フィリピン、インドネシアと下級兵士として転戦していった過程で日本軍が駐屯していた様々な地の慰安所を見聞きしてきたという。
1944年、終戦間際のインドネシア、アンボンの慰安所には、十三名の女性がいて、そのうち、七名が日本人であった。Iさんは、何度も繰り返し語った。アンボンに来るまでは、「朝鮮ピー」(軍隊での朝鮮人慰安婦の蔑称)の存在は知っていたが、日本人の女性まで慰安婦として狩り出されているとは思いも寄らなかったと。
彼女たちの大半は、看護婦や女給の仕事と誘拐まがいに騙され、慰安婦として狩り出された境遇がほとんどだったという。
戦前、中国・上海の海軍慰安所で「従軍慰安婦」として働かせる目的で、日本から女性をだまして連れて行った日本人慰安所経営者らが、国外移送目的の誘拐を禁じた旧刑法226条の「国外移送、国外誘拐罪」(現在の国外移送目的略取・誘拐罪)で1937(昭和12)年、大審院(現在の最高裁)で有罪の確定判決を受けていた。〈中略〉「国外移送誘拐被告事件」と題されたこの判例によると、事件の概要は、上海で軍人相手に女性に売春をさせていた業者が、32年の上海事変で駐屯する海軍軍人の増加に伴い、「海軍指定慰安所」の名称のもとに営業の拡張を計画。知人と「醜業(売春)を秘し、女給か女中として雇うように欺まんし、移送することを謀議」し、知人の妻らに手伝わせ、長崎から15人の日本人女性を上海へ送った。
毎日新聞1997年8月6日
日本から女性を騙して連れていった慰安所経営者らが、「国外移送、国外誘拐罪」で1937年、有罪の確定判決を受けた翌年、1938年には陸軍兵務局兵務課から「軍慰安所従業婦等募集に関する件」、内務省警保局から「支那渡航婦女の取扱に関する件」、と立て続けに通牒が発せられている。要約すれば、中国での慰安所設置のため、慰安婦を募集する際、軍部諒解の名義を利用し、誘拐に類した方法が取られる場合もあり、軍の威信を傷つけ、社会問題化する危険性もあるので、日本内地での募集にあたっては、現在、売春に携っている二十一歳以上の女性の渡航のみ許可し、募集の取扱いに関しては充分、配慮するようにとの内容である。
日本人慰安婦の場合、公娼制の下で国家管理下、売春をさせられていた女性たちが、まず狩り出されていった経緯があるにしても、この様な通牒が陸軍と内務省から連続して発せられている背景には、慰安婦徴募に際し、人身売買や就業詐欺等の行為が、当時の植民地のみならず、内地においても少なからず横行していたことを物語る。
そして犠牲者は、同様に当時の社会の底辺に在った貧しい階層の少女たちであった。
賢明さや理性、様々な情報網からあらかじめ排除され、悪質な業者の魔の手から逃れる術が最初から断たれていた寄る辺のない少女たちーいつの時代も彼女たちが、真っ先に男たちの欲望の餌食に供されていく。過去百年の歴史の中で、日本は、アジア地域において、そういった少女たちの動向を左右する核となる磁力を温存し続けてきたのだ。
続く
「うめまる」、「うめか」、「はるこ」、「まさこ」…九十歳近い老人は、はっきりとその女性たちの名前を記憶していた。
六十年前、現在のインドネシア、アンボンで旧日本軍の慰安所にいた日本人女性の名である。
陸軍の山砲兵第四十八連隊に所属していたという旧日本軍兵士の老人は、慰安婦問題の立法解決を考える集会の新聞記事を読んで連絡してきた。
戦友会のかつての同僚たちは、慰安所にまつわる話に触れることを快く思わないだろうが、しかし、死ぬ前にどうしても語っておきたいことがあると杖をつきながら不自由な体をおして、訪ねてきた。補聴器を付けていたが、こちらの話は、ほとんど聴こえておらず、会話がなかなか成立しない。老人は、耳が遠いため、野太い声で過去の記憶を行きつ戻りつしながら話をしていった。
封印されてきた戦争の実相にわずかでも迫ってみたいと願っても、戦後六十年という歳月の長さと、残された時間が限られていることを改めて実感する。
この元日本軍兵士、Iさん(本人の希望により匿名)は、1939年(昭和14年)に入隊し、台湾から中国海南島、福建省、フィリピン、インドネシアと下級兵士として転戦していった過程で日本軍が駐屯していた様々な地の慰安所を見聞きしてきたという。
1944年、終戦間際のインドネシア、アンボンの慰安所には、十三名の女性がいて、そのうち、七名が日本人であった。Iさんは、何度も繰り返し語った。アンボンに来るまでは、「朝鮮ピー」(軍隊での朝鮮人慰安婦の蔑称)の存在は知っていたが、日本人の女性まで慰安婦として狩り出されているとは思いも寄らなかったと。
彼女たちの大半は、看護婦や女給の仕事と誘拐まがいに騙され、慰安婦として狩り出された境遇がほとんどだったという。
戦前、中国・上海の海軍慰安所で「従軍慰安婦」として働かせる目的で、日本から女性をだまして連れて行った日本人慰安所経営者らが、国外移送目的の誘拐を禁じた旧刑法226条の「国外移送、国外誘拐罪」(現在の国外移送目的略取・誘拐罪)で1937(昭和12)年、大審院(現在の最高裁)で有罪の確定判決を受けていた。〈中略〉「国外移送誘拐被告事件」と題されたこの判例によると、事件の概要は、上海で軍人相手に女性に売春をさせていた業者が、32年の上海事変で駐屯する海軍軍人の増加に伴い、「海軍指定慰安所」の名称のもとに営業の拡張を計画。知人と「醜業(売春)を秘し、女給か女中として雇うように欺まんし、移送することを謀議」し、知人の妻らに手伝わせ、長崎から15人の日本人女性を上海へ送った。
毎日新聞1997年8月6日
日本から女性を騙して連れていった慰安所経営者らが、「国外移送、国外誘拐罪」で1937年、有罪の確定判決を受けた翌年、1938年には陸軍兵務局兵務課から「軍慰安所従業婦等募集に関する件」、内務省警保局から「支那渡航婦女の取扱に関する件」、と立て続けに通牒が発せられている。要約すれば、中国での慰安所設置のため、慰安婦を募集する際、軍部諒解の名義を利用し、誘拐に類した方法が取られる場合もあり、軍の威信を傷つけ、社会問題化する危険性もあるので、日本内地での募集にあたっては、現在、売春に携っている二十一歳以上の女性の渡航のみ許可し、募集の取扱いに関しては充分、配慮するようにとの内容である。
日本人慰安婦の場合、公娼制の下で国家管理下、売春をさせられていた女性たちが、まず狩り出されていった経緯があるにしても、この様な通牒が陸軍と内務省から連続して発せられている背景には、慰安婦徴募に際し、人身売買や就業詐欺等の行為が、当時の植民地のみならず、内地においても少なからず横行していたことを物語る。
そして犠牲者は、同様に当時の社会の底辺に在った貧しい階層の少女たちであった。
賢明さや理性、様々な情報網からあらかじめ排除され、悪質な業者の魔の手から逃れる術が最初から断たれていた寄る辺のない少女たちーいつの時代も彼女たちが、真っ先に男たちの欲望の餌食に供されていく。過去百年の歴史の中で、日本は、アジア地域において、そういった少女たちの動向を左右する核となる磁力を温存し続けてきたのだ。
続く
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