Re: 支那は支那・・嫌がらせ心理
投稿者: palmereldritch608 投稿日時: 2007/03/11 14:32 投稿番号: [133413 / 196466]
>どうやって「秦」に由来したと言える?
大抵の辞書にはそう書いてありますなぁ。笑。
【支那】 中国に対して・・・王朝名の秦(しん)が音変化して西方に伝わり、それを翻訳したものといわれる。
日本国語大辞典。 広辞苑も同様の見解。
chi-na ・・・chin,ch`in(秦王朝)が、初期近代英語に入った。
英語語義語源辞典。 英語語源辞典、ジーニアス英和辞典も同様の見解。
違うというのなら、お前こそきちんと反証してみればいい。もちろん、私は辞典を信用するし、反証したところで支那禁圧はいささかも正当化されるわけではない。
>ほかの山田と称呼される人たちの了承までも得なければ、そのあだ名の使用が出来ないし、無理やりに使用しても機能しない。無理やりと称呼すれば、場合によって、お前は法的責任を負わなければならない。
法的責任は社会倫理の問題であり。呼称の成立とはとりあえずは別問題だ。「無理やりに使用しても機能しない」だと?お前は認知症かね?「ド倭人」なる、お前の人品そのものの下品な呼称は機能しなかったか?したからこそ日本人は怒ったのだろう。呼ばれる日本人が了承などしなくとも「ド倭人」という呼称はいちおう成立し機能したじゃないか。勿論、こんな蔑称を世間で使用していたら、いずれ下手をすると袋叩きか司直に突き出されるがな。しかし、これは社会倫理の問題だ。自ら墓穴を掘ってどうすんだ。笑。
呼称は、本人に対する呼びかけで使用されるだけではないぞ、むしろ本人不在の状況や呼び掛け以外で使用されることのほうが多いんじゃないのかね。そもそも、呼称が成立するためには、呼ぶ人が必要なのか、呼ばれる人が必要なのか?いったいどっちだと思ってるんだ?その呼称を呼ぶ人はむろん必要だ。誰一人にも呼ばれぬ呼称など呼称ではないからだ。なら、呼ばれる人の存在は必要だろうか?必要ではない。我々は小説の登場人物や、宇宙人、幽霊、妖怪、妖精といった、この世には存在しない者にまで、名づけ、呼称しているからだ。呼称が成立するためには、それを呼ぶ人と、呼ぶ人の想念があれば十分なのだ。
この事実は、本質的に、呼称のその主体はそれを呼ぶ人であり。本人の実在や意思とは別のところで成立しているのだということを裏付けているんじゃないのかね。
だからといって、通常の世間では、呼ぶ人が呼称の主体たる権利を一方的に振舞わすなどということは、あまり起こらんよ。出来るだけ本人の希望を聞いてやることは、寛容や思いやりといった徳目ではあるからな。だからといって、それが本人の権利という訳ではない。あくまで呼称は呼ぶ人の権利なのだ。だからこそ、もし本人が希望する呼称があるのなら、誰もが「こう呼んでください」とお願いし、呼ぶ人の寛容にすがるんじゃないのかね。了承するのは、本人ではない。逆だ。それを呼ぶ人がそれを了承するのだ。支那がいつ日本や日本人に、正しくお願いし、日本人の了承を求めたんだ。
もし、お前の妄想するとおり、呼称が本人のものであるなら、例えば他人同士の噂話で出てくる自分の呼称にまでクレームをつけることが出来るという事になるな。事実支那はそうしている。いったい、この世の誰にそんな途方もない権利があるなどと思えるんだ?
なーんの反論にもなっとらんよ。もすこし考えなさーい。苦笑。
大抵の辞書にはそう書いてありますなぁ。笑。
【支那】 中国に対して・・・王朝名の秦(しん)が音変化して西方に伝わり、それを翻訳したものといわれる。
日本国語大辞典。 広辞苑も同様の見解。
chi-na ・・・chin,ch`in(秦王朝)が、初期近代英語に入った。
英語語義語源辞典。 英語語源辞典、ジーニアス英和辞典も同様の見解。
違うというのなら、お前こそきちんと反証してみればいい。もちろん、私は辞典を信用するし、反証したところで支那禁圧はいささかも正当化されるわけではない。
>ほかの山田と称呼される人たちの了承までも得なければ、そのあだ名の使用が出来ないし、無理やりに使用しても機能しない。無理やりと称呼すれば、場合によって、お前は法的責任を負わなければならない。
法的責任は社会倫理の問題であり。呼称の成立とはとりあえずは別問題だ。「無理やりに使用しても機能しない」だと?お前は認知症かね?「ド倭人」なる、お前の人品そのものの下品な呼称は機能しなかったか?したからこそ日本人は怒ったのだろう。呼ばれる日本人が了承などしなくとも「ド倭人」という呼称はいちおう成立し機能したじゃないか。勿論、こんな蔑称を世間で使用していたら、いずれ下手をすると袋叩きか司直に突き出されるがな。しかし、これは社会倫理の問題だ。自ら墓穴を掘ってどうすんだ。笑。
呼称は、本人に対する呼びかけで使用されるだけではないぞ、むしろ本人不在の状況や呼び掛け以外で使用されることのほうが多いんじゃないのかね。そもそも、呼称が成立するためには、呼ぶ人が必要なのか、呼ばれる人が必要なのか?いったいどっちだと思ってるんだ?その呼称を呼ぶ人はむろん必要だ。誰一人にも呼ばれぬ呼称など呼称ではないからだ。なら、呼ばれる人の存在は必要だろうか?必要ではない。我々は小説の登場人物や、宇宙人、幽霊、妖怪、妖精といった、この世には存在しない者にまで、名づけ、呼称しているからだ。呼称が成立するためには、それを呼ぶ人と、呼ぶ人の想念があれば十分なのだ。
この事実は、本質的に、呼称のその主体はそれを呼ぶ人であり。本人の実在や意思とは別のところで成立しているのだということを裏付けているんじゃないのかね。
だからといって、通常の世間では、呼ぶ人が呼称の主体たる権利を一方的に振舞わすなどということは、あまり起こらんよ。出来るだけ本人の希望を聞いてやることは、寛容や思いやりといった徳目ではあるからな。だからといって、それが本人の権利という訳ではない。あくまで呼称は呼ぶ人の権利なのだ。だからこそ、もし本人が希望する呼称があるのなら、誰もが「こう呼んでください」とお願いし、呼ぶ人の寛容にすがるんじゃないのかね。了承するのは、本人ではない。逆だ。それを呼ぶ人がそれを了承するのだ。支那がいつ日本や日本人に、正しくお願いし、日本人の了承を求めたんだ。
もし、お前の妄想するとおり、呼称が本人のものであるなら、例えば他人同士の噂話で出てくる自分の呼称にまでクレームをつけることが出来るという事になるな。事実支那はそうしている。いったい、この世の誰にそんな途方もない権利があるなどと思えるんだ?
なーんの反論にもなっとらんよ。もすこし考えなさーい。苦笑。
これは メッセージ 133341 (cobapics0506z さん)への返信です.
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