Re: 支那は支那・・嫌がらせ心理
投稿者: cobapics0506z 投稿日時: 2007/03/10 01:04 投稿番号: [133341 / 196466]
>不在の間に、なにやら馬鹿な書き込みがあったので、撃滅しましょう。<
笑・・・お前が?それは「自滅」の間違いだろ?
>支那禁圧問答集2の9は、名とは誰のものかという、呼称に関する本質的問題だ。<
これは小学生にも通用しない幼稚な屁理屈。
これらは共時的には別言語だが、通時的には秦から派生した同じ言葉だ。そ>れがどしたの?<
へ〜?共時的には別ことだと?ということは、お前らが今という時、CHINA等のヨーロッパ系語から、「支那」という言葉の使用からその正当性が得られないわけですね。
通時的に「秦から派生した同じ言葉だ」と、お前は言っていますね。
では、「秦」という言葉は、それらの言葉と通時的に存在したのだろうか?「支那」と言う言葉は、お前自身の言い方を借りれば、
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=552018654&tid=bbyfaa4oba9jl8la4ga4oa4ja4a4a4ac cf9qa4oba9jl8la4ga49&sid=552018654&mid=676
>歴史的に見れば、日本でも「支那」のほうが圧倒的に古く、昭和30年代まで、日本人は普通に使っていた馴染み深い呼称だ<
「昭和30年代まで」の使用であり、その間40年以上、通時的にあった言葉ではないことが分かる。
ましてそれらのヨーロッパ系語は、はるか以前にあってきた言葉であり、その使用には一貫した歴史的経緯を持つ。「支那」というのは精精近代以来、日本で使用始められ、それ以前は「震旦」などの訳語もあったごとく、決して統一的に使用したことばではない。玄奘三蔵たちが訳したのは、古典梵語だよ。今のサンスクリット語表示とは、全く別物だよ。どうやって「秦」に由来したと言える?
仮にサンスクリット語において見ても、それは決して「秦」の意味に統一されていません。別の意味もあるよ。
やはりお前の屁理屈は、辻褄が逢わない。所詮倭人の自己欺瞞の破滅論に過ぎない。この総論的部分だけを見ても、お前は、ぼろぼろ破綻した。自滅の道を歩いた。
さて、お前の屁理屈論を徹底的に破れてしまいましょう。
名は体を現す通り、あくまで本人のものだ。
お前の挙げたのは、極めて特別な例であって、それでも、この定義に漏れない。仮にお前が挙げた例を見よう。
>仮に「山田太郎」なる同姓同名の生徒が10人もいる学級があったとしよう。彼らは日常的にはクラスメートから、決して山田とも太郎とも呼ばれることはないはずだ。なにか適当なあだ名を用いて彼らは呼ばれるしかない。教師ですら、出席を取るときには番号で呼ぶだろう。彼らはみな主観的には「山田太郎」だが、言語の合理性がこれを呼称とすることを許さないのだ。<
言語の合理性は、この場合に限って本人の名前である「山田太郎」の使用が許されても、適当なあだ名とするものを、本人の了承を、ほかの山田と称呼される人たちの了承までも得なければ、そのあだ名の使用が出来ないし、無理やりに使用しても機能しない。無理やりと称呼すれば、場合によって、お前は法的責任を負わなければならない。
特に本人がだめと云う場合。
この場合、本人は「山田太郎」という本名を失ったわけでもなく、必要に応じて「山田太郎」と呼ばれなければならない。決していつでも呼ぶ側の勝手ではなく、呼ぶ側の権利なんて、本人の承諾なければ、生じません。
つまりお前の「呼ぶ人の権利だと言」うのは、この場合自動的に失う。
だが本人の「山田太郎」と云う名は、本人が持つものとしての権利は、そのまま保持する。
従って、お前の論は所詮屁理屈の域を出ないと証明された。
一万歩を譲って、十万歩を譲って、
>名とはそれを呼ぶ人のものであり、なんと呼ぶかは基本的には呼ぶ人の権利だと言っているのだぞ<
というお前の屁理屈が成り立てば、
俺は、お前らを「倭人」と称することも、同様に我々中国人の正当な権利となる。
倭人よ、どう?異論だろ?
笑・・・お前が?それは「自滅」の間違いだろ?
>支那禁圧問答集2の9は、名とは誰のものかという、呼称に関する本質的問題だ。<
これは小学生にも通用しない幼稚な屁理屈。
これらは共時的には別言語だが、通時的には秦から派生した同じ言葉だ。そ>れがどしたの?<
へ〜?共時的には別ことだと?ということは、お前らが今という時、CHINA等のヨーロッパ系語から、「支那」という言葉の使用からその正当性が得られないわけですね。
通時的に「秦から派生した同じ言葉だ」と、お前は言っていますね。
では、「秦」という言葉は、それらの言葉と通時的に存在したのだろうか?「支那」と言う言葉は、お前自身の言い方を借りれば、
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=552018654&tid=bbyfaa4oba9jl8la4ga4oa4ja4a4a4ac cf9qa4oba9jl8la4ga49&sid=552018654&mid=676
>歴史的に見れば、日本でも「支那」のほうが圧倒的に古く、昭和30年代まで、日本人は普通に使っていた馴染み深い呼称だ<
「昭和30年代まで」の使用であり、その間40年以上、通時的にあった言葉ではないことが分かる。
ましてそれらのヨーロッパ系語は、はるか以前にあってきた言葉であり、その使用には一貫した歴史的経緯を持つ。「支那」というのは精精近代以来、日本で使用始められ、それ以前は「震旦」などの訳語もあったごとく、決して統一的に使用したことばではない。玄奘三蔵たちが訳したのは、古典梵語だよ。今のサンスクリット語表示とは、全く別物だよ。どうやって「秦」に由来したと言える?
仮にサンスクリット語において見ても、それは決して「秦」の意味に統一されていません。別の意味もあるよ。
やはりお前の屁理屈は、辻褄が逢わない。所詮倭人の自己欺瞞の破滅論に過ぎない。この総論的部分だけを見ても、お前は、ぼろぼろ破綻した。自滅の道を歩いた。
さて、お前の屁理屈論を徹底的に破れてしまいましょう。
名は体を現す通り、あくまで本人のものだ。
お前の挙げたのは、極めて特別な例であって、それでも、この定義に漏れない。仮にお前が挙げた例を見よう。
>仮に「山田太郎」なる同姓同名の生徒が10人もいる学級があったとしよう。彼らは日常的にはクラスメートから、決して山田とも太郎とも呼ばれることはないはずだ。なにか適当なあだ名を用いて彼らは呼ばれるしかない。教師ですら、出席を取るときには番号で呼ぶだろう。彼らはみな主観的には「山田太郎」だが、言語の合理性がこれを呼称とすることを許さないのだ。<
言語の合理性は、この場合に限って本人の名前である「山田太郎」の使用が許されても、適当なあだ名とするものを、本人の了承を、ほかの山田と称呼される人たちの了承までも得なければ、そのあだ名の使用が出来ないし、無理やりに使用しても機能しない。無理やりと称呼すれば、場合によって、お前は法的責任を負わなければならない。
特に本人がだめと云う場合。
この場合、本人は「山田太郎」という本名を失ったわけでもなく、必要に応じて「山田太郎」と呼ばれなければならない。決していつでも呼ぶ側の勝手ではなく、呼ぶ側の権利なんて、本人の承諾なければ、生じません。
つまりお前の「呼ぶ人の権利だと言」うのは、この場合自動的に失う。
だが本人の「山田太郎」と云う名は、本人が持つものとしての権利は、そのまま保持する。
従って、お前の論は所詮屁理屈の域を出ないと証明された。
一万歩を譲って、十万歩を譲って、
>名とはそれを呼ぶ人のものであり、なんと呼ぶかは基本的には呼ぶ人の権利だと言っているのだぞ<
というお前の屁理屈が成り立てば、
俺は、お前らを「倭人」と称することも、同様に我々中国人の正当な権利となる。
倭人よ、どう?異論だろ?
これは メッセージ 133315 (palmereldritch608 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/ffccf4x78_1/133341.html