日本の戦後経済復興の概要
投稿者: tokyo_made_otearai_benki 投稿日時: 2007/03/06 16:04 投稿番号: [133071 / 196466]
二.復興期
日本経済が疲弊しきったこの状況下で政府が採用したのが、1946年〜48年の「傾斜生産式」であった。この生産体制は、限られた輸入原料と政府資金を重要戦略産業に配分することによって、戦後経済の俊敏な再建を図ろうとするものであった。この傾斜生産方式によって石炭の他産業への割り当てが可能となり、経済再建の過程への速やかな移行が可能となったことは否定できない。しかし、傾斜生産方式による資源配分は、必ずしも経済効率性を保証するものではなかった。実際、石炭および鉄鋼の生産拡大は、きわめて高い費用の下にようやく可能となったのであって、政府は高い生産費と低い公定価格のギャップを埋めるため、巨額の「価格差補給金」を供与せざるを得なかった。それに加えて、復興金融公庫は日銀引き受けによる復金債券発行という方法で資金を得ていた。傾斜生産方式のこのような金融的メカニズムが深刻なインフレ圧力を生むことは自明であった。
当時は円の過大評価と考えられていた固定為替レートと国内の基礎物資の高い生産費を前提として、資源のより効率的な利用と新規産業の育成を図るためには、なんらかの包括的な措置が必要であった。この要請に応えて、49年12月に合理化推政策に関する合意を政府・民間企業・労働者間で形成する目的をもって「産業合理化審議会」が通商産業省(現経済産業省・以下当時の名称を使用する)によって設立されたのである。これにより、主要な産業政策の策定に先だって民間と政府官僚との間で意見交換が行われることになり、民間主体が非公式な形で政策形成に事前に参加する道が開かれたのである。
さらに、「外貨法」が制定され、これらの法律によって政府は、外貨・輸入割り当て・資本流出入の管理等の直接的統制権限を手に入れた。こうして確立された規制の枠組みの中で、産業合理化のための様々な試みがなされた。重要戦略産業の指定を受けた産業内の企業を無差別的に優遇した傾斜生産方式とは対照的に、この時期の産業政策の重点は、対象とされた産業内で技術的優位にある企業を選別的に優遇することにおかれた。この合理化政策によって生産性は確かに向上したが、デフレーションとそれに伴う非効率的企業の大量倒産、失業率の上昇といった大きな犠牲を払わねばならなかった。
ところが、1950年に勃発した朝鮮戦争によって、これらの問題は一掃され、繊維、化学、鉄鋼、機械、非金属、木材、の各産業において、輸出、生産、利潤、雇用のすべてが急速に拡大し特需による外貨収入は、国際収支の天井を押し上げた。長期的な観点からいってさらに重要なことは、この戦争が設備投資と技術革新とを促進する効果を伴ったことである。
>>>>特需に応ずるための重化学工業部門の拡大と米軍からの技術供与が、多くの産業に外国技術の導入と生産能力の拡脹・更新の動機づけを与えた。<<<<
こうした事情を背景として、戦後日本の産業政策の原型が明確となってくる。この時期の産業政策の重要な政策手段は利益誘導的・勧告的性格の強い戦前の直接統制の痕跡を残したものであったが、52年4月の「臨時物資需給緊急調整法」の失効により直接的統制経済から混合経済に立脚した競争的市場経済へと移行したのである。
http://members.ld.infoseek.co.jp/msk_ngys/page2/report2/sengo_sangyou.htm
日本経済が疲弊しきったこの状況下で政府が採用したのが、1946年〜48年の「傾斜生産式」であった。この生産体制は、限られた輸入原料と政府資金を重要戦略産業に配分することによって、戦後経済の俊敏な再建を図ろうとするものであった。この傾斜生産方式によって石炭の他産業への割り当てが可能となり、経済再建の過程への速やかな移行が可能となったことは否定できない。しかし、傾斜生産方式による資源配分は、必ずしも経済効率性を保証するものではなかった。実際、石炭および鉄鋼の生産拡大は、きわめて高い費用の下にようやく可能となったのであって、政府は高い生産費と低い公定価格のギャップを埋めるため、巨額の「価格差補給金」を供与せざるを得なかった。それに加えて、復興金融公庫は日銀引き受けによる復金債券発行という方法で資金を得ていた。傾斜生産方式のこのような金融的メカニズムが深刻なインフレ圧力を生むことは自明であった。
当時は円の過大評価と考えられていた固定為替レートと国内の基礎物資の高い生産費を前提として、資源のより効率的な利用と新規産業の育成を図るためには、なんらかの包括的な措置が必要であった。この要請に応えて、49年12月に合理化推政策に関する合意を政府・民間企業・労働者間で形成する目的をもって「産業合理化審議会」が通商産業省(現経済産業省・以下当時の名称を使用する)によって設立されたのである。これにより、主要な産業政策の策定に先だって民間と政府官僚との間で意見交換が行われることになり、民間主体が非公式な形で政策形成に事前に参加する道が開かれたのである。
さらに、「外貨法」が制定され、これらの法律によって政府は、外貨・輸入割り当て・資本流出入の管理等の直接的統制権限を手に入れた。こうして確立された規制の枠組みの中で、産業合理化のための様々な試みがなされた。重要戦略産業の指定を受けた産業内の企業を無差別的に優遇した傾斜生産方式とは対照的に、この時期の産業政策の重点は、対象とされた産業内で技術的優位にある企業を選別的に優遇することにおかれた。この合理化政策によって生産性は確かに向上したが、デフレーションとそれに伴う非効率的企業の大量倒産、失業率の上昇といった大きな犠牲を払わねばならなかった。
ところが、1950年に勃発した朝鮮戦争によって、これらの問題は一掃され、繊維、化学、鉄鋼、機械、非金属、木材、の各産業において、輸出、生産、利潤、雇用のすべてが急速に拡大し特需による外貨収入は、国際収支の天井を押し上げた。長期的な観点からいってさらに重要なことは、この戦争が設備投資と技術革新とを促進する効果を伴ったことである。
>>>>特需に応ずるための重化学工業部門の拡大と米軍からの技術供与が、多くの産業に外国技術の導入と生産能力の拡脹・更新の動機づけを与えた。<<<<
こうした事情を背景として、戦後日本の産業政策の原型が明確となってくる。この時期の産業政策の重要な政策手段は利益誘導的・勧告的性格の強い戦前の直接統制の痕跡を残したものであったが、52年4月の「臨時物資需給緊急調整法」の失効により直接的統制経済から混合経済に立脚した競争的市場経済へと移行したのである。
http://members.ld.infoseek.co.jp/msk_ngys/page2/report2/sengo_sangyou.htm
これは メッセージ 133069 (tokyo_made_otearai_benki さん)への返信です.
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