Re: 盧溝橋事件と日中戦争②
投稿者: jptmd2004 投稿日時: 2006/05/24 19:39 投稿番号: [115995 / 196466]
【
1937/07/07 盧溝橋事件 (日中戦争勃発)
1937/07/11 盧溝橋事件現地停戦協定成立
1937/07/11 日本政府、華北への派兵を声明 (盧溝橋事件)
1937/07/28 日本軍、総攻撃開始 (華北)
1937/08/13 上海事変②
1937/08/15 日本政府「断固たる措置」声明
1937/08/15 全国総動員令 (総司令:蒋介石)
1937/09/12 中国国民政府、国際連盟に日本軍の侵略を提訴
1937/09/23 国共合作②成立
1937/10/05 F・ルーズベルト(米)大統領、日独を侵略国家として非難 (隔離演説)
1937/10/06 国際連盟、日本を九ヵ国条約と不戦条約に違反していると決議
】
①のレス>7月17日 蒋介石がラジオで『生死関頭』演説を行い戦争の決意を表明
戦争をしたくないのなら、シナ側が、ここで、対話と戦争をする意思がないことを表明すべきだ。でも戦争やるぞ!と言った。ああ。やっぱりな。蒋介石は、最初からやる気だった。日本側がそういう理解をしても仕方がない。 <<<
日本は、停戦協定を無視して、華北派兵すると宣言した以上、
明らかな約束違反だ。
停戦協定が終わったばかりなのに、派兵するのが明らかに中国の主権を無視した行為だった。
なんのための協定か、停戦の協定だったよ。
ここで、従来のように抗戦しなければ、日本が従来の通り、いつでも中国の主権を踏みにじると判断した。
我慢には我慢の限界がある。
【この銃撃戦については、『大公報』1937年8月10日号は次のように報道している。8月9日午後5時半、日本海軍将兵2名が自動車に乗り虹橋飛行場に来て、場内に進入しようとした。飛行場の衛兵はこれを阻止しようとしたところ、日本軍側は発砲し始めた。衛兵は、日本軍とのトラブルを避けるように注意を受けていたので、これに反撃せずに退避していた。ところが、付近の保安隊が銃撃を聞きつけ出動した。これに対し、日本軍側がさらに発砲を行ったことで銃撃戦となり、保安隊員1名と日本人1名がその場で死亡し、日本人1名が重傷の後死亡した。】
停戦条約の会談を阻止する狙いをした日本将校が、衛兵の命令に従わなかった。
因みに
上海第一次事件では、計画者は上海公使館付陸軍武官補佐官田中隆吉少佐、実行者は憲兵大尉の重藤憲史と「東洋のマタ・ハリ」川島芳子。
川島芳子は中国人の殺し屋を雇い、1932年1月18日の夜、上海の馬玉山路を歩いていた日本人僧侶を襲わせた。
1937/07/07 盧溝橋事件 (日中戦争勃発)
1937/07/11 盧溝橋事件現地停戦協定成立
1937/07/11 日本政府、華北への派兵を声明 (盧溝橋事件)
1937/07/28 日本軍、総攻撃開始 (華北)
1937/08/13 上海事変②
1937/08/15 日本政府「断固たる措置」声明
1937/08/15 全国総動員令 (総司令:蒋介石)
1937/09/12 中国国民政府、国際連盟に日本軍の侵略を提訴
1937/09/23 国共合作②成立
1937/10/05 F・ルーズベルト(米)大統領、日独を侵略国家として非難 (隔離演説)
1937/10/06 国際連盟、日本を九ヵ国条約と不戦条約に違反していると決議
】
①のレス>7月17日 蒋介石がラジオで『生死関頭』演説を行い戦争の決意を表明
戦争をしたくないのなら、シナ側が、ここで、対話と戦争をする意思がないことを表明すべきだ。でも戦争やるぞ!と言った。ああ。やっぱりな。蒋介石は、最初からやる気だった。日本側がそういう理解をしても仕方がない。 <<<
日本は、停戦協定を無視して、華北派兵すると宣言した以上、
明らかな約束違反だ。
停戦協定が終わったばかりなのに、派兵するのが明らかに中国の主権を無視した行為だった。
なんのための協定か、停戦の協定だったよ。
ここで、従来のように抗戦しなければ、日本が従来の通り、いつでも中国の主権を踏みにじると判断した。
我慢には我慢の限界がある。
【この銃撃戦については、『大公報』1937年8月10日号は次のように報道している。8月9日午後5時半、日本海軍将兵2名が自動車に乗り虹橋飛行場に来て、場内に進入しようとした。飛行場の衛兵はこれを阻止しようとしたところ、日本軍側は発砲し始めた。衛兵は、日本軍とのトラブルを避けるように注意を受けていたので、これに反撃せずに退避していた。ところが、付近の保安隊が銃撃を聞きつけ出動した。これに対し、日本軍側がさらに発砲を行ったことで銃撃戦となり、保安隊員1名と日本人1名がその場で死亡し、日本人1名が重傷の後死亡した。】
停戦条約の会談を阻止する狙いをした日本将校が、衛兵の命令に従わなかった。
因みに
上海第一次事件では、計画者は上海公使館付陸軍武官補佐官田中隆吉少佐、実行者は憲兵大尉の重藤憲史と「東洋のマタ・ハリ」川島芳子。
川島芳子は中国人の殺し屋を雇い、1932年1月18日の夜、上海の馬玉山路を歩いていた日本人僧侶を襲わせた。
これは メッセージ 115938 (yousunwai さん)への返信です.
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