Re: 百年前の清の北洋艦隊
投稿者: ipodsd 投稿日時: 2006/05/12 17:08 投稿番号: [115263 / 196466]
現在の中共のオツムの中は、百年前の、ハチャメチャ清の北洋大臣・李鴻章と同じだな。
要するに、砲艦外交。
これには、ポンコツ空母でも役にたつぞ。これで、東南アジア、中近東、アフリカ、南米を回れば、李鴻章の望みがかなうというもの。
くすくすくす
もっとも、北洋艦隊は日清戦争の黄海海戦で、日本の巡洋艦隊の袋叩きにあって、壊滅したが。
清の北洋艦隊:
清国は財政困難であったが、財源を工夫して軍備に力を入れ、殊に海軍を増強し、明治十八年十月十三日には海軍衙門を新設し、北洋水師の一部を精錬して全国海軍の先導とした。
かつて独逸に造らせた砲塔鋼鉄の「定遠」や「鎮遠」はいずれも七千四百三十トンの姉妹戦艦であり、「済遠」は二千三百五十五トンの巡洋鋼鉄戦艦であり、いずれも東洋に於ては稀有のものである。
再三不平のあまりに平生から日本を 「貧国なり」などと言っていた李鴻章は、想うに一入考えを巡らせたであろう。曰く、「我が中国の海軍は以て日本に観せて懾伏(おそれてひれふすこと)させるべきである」と。
明治19年8月、清国水師提督丁汝昌は旗艦定遠に乗り、海軍衙門雇いの水師副提督英国人ウィリアム・ラングと共に鎮遠、済遠、また北洋艦隊練習船威遠と、4隻の軍艦が、修復の為に長崎に入港したが、上陸した清国水兵は世に言う長崎事件を誘発し、その規模において「宛も一小戦地なる」ひどいものであったが、負け犬清国水兵たちは清国領事館内に逃げ込んだ。日本側被害は巡査の死亡2名、重軽傷26名、清側の被害は士官1人が即死し、負傷の支那水兵は15、6名に及んだ。(清国側の言では、死亡8名、負傷42名。)
日本に戦艦を観せて恐れさせんとした李鴻章の思いに反して、自国水兵が殺傷されたことによる李鴻章の憤怒は、長崎の委員会も捗らず、更に井上と徐の談判も思うようにならず、遂に彼自身が談判を担当せざるを得なくなった時、益々癇癪は募って、人に対して「今度こそは日本を一撃せん」と放言したことがあった。
げらげらげら
これは メッセージ 115254 (wasabi701 さん)への返信です.
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