「日中戦争」と呼ばれる出来事について①
投稿者: hangyosyufu 投稿日時: 2005/12/21 18:41 投稿番号: [105445 / 196466]
他トピより
昭和12(1937)年7月7日の「廬溝橋事件」から、昭和20年8月15日の終戦まで、実に8年間の長期にわたって続いたのが「日中戦争」(支那事変・日華事変)である。
この「日中戦争」を、支那は日本軍国主義による「中国侵略」だと主張してきた。この主張に基づいて、中国は日本の歴代政権に対し、繰り返し「過去の戦争責任」の追求と「正しい歴史認識」の強要をしてきた。
しかし、過去の投稿「廬溝橋事件①&②」を思い出して頂きたい。
廬溝橋事件①
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=1143583&tid=a1 ya1ya1ycf9qa4ha4a4a4a65pbga4j0ada1ya1ya1y&sid=1143583&mid=633
廬溝橋事件②
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=1143583&tid=a1 ya1ya1ycf9qa4ha4a4a4a65pbga4j0ada1ya1ya1y&sid=1143583&mid=634
「廬溝橋事件」で日本に事を構えさせるように仕向けたのは、現在「中華人民共和国」として支那の政権を握っている支那共産党だったわけだ。
つまり、日本側には最初から「中国侵略」などと言う野望はなかったわけだ。その証拠に、「廬溝橋事件」の発生から間もなくして、日本軍は事件不拡大方針を表明している。事態の沈静化と早期の終息を願っていたが故の動きである。だから、日本側としては、もはや国民党軍と事を構えたくはなかった。支那との全面戦争など欲していなかったのである。
しかし、こうした言論に対して、偏向左翼や反日勢力は反発する。当時の日本軍が支那に「駐留」していたこと自体に、侵略の意図があるのだと主張する者もいる。ところが、日本軍の支那駐留と「日中戦争」とには、何ら直接的関係はなかったのだ。それでは、「中国侵略」が虚構である根拠を「日本軍の支那駐留」を軸にして、以下に書いてみる。
まず、最初に書いておくべき事がある。それは、日本軍の支那進駐という事実は、「中国侵略」の証拠にならないということである。当時、確かに日本軍は支那に駐留していた。しかし、決して「侵略」をしてはいなかった。
日本軍が支那に最初に進駐したのは、明治33(1900)年のことである。まさに「義和団事件」が発生した時だった。1月22日に列国公使団が、暴徒・匪賊の集まりであった「義和団」の鎮圧を、清国政府に対して要求した。だが、この機会に列強勢力を支那から駆逐したいと考えていた西太后ら保守派は、逆に「義和団」を支持したのである。
4月22日、西太后の支援を受けた「義和団」が、首都・北京に入城した。すると北京の治安は急速に悪化し、社会は混乱に陥った。更に、外国人(列強諸国の居留民)排斥を唱えて、列強公使館に「進軍」する状況になった。
それに呼応して5月31日に、居留民保護と治安回復を目的とした(注)8ヶ国連合軍が北京に出兵した。つまり、8ヶ国連合軍の一員として、日本軍は進駐したのに過ぎないのである。そもそも「侵略」を意図したものではなかった。
(注)8ヶ国連合軍を構成した国家
イギリス・フランス・アメリカ・ロシア・ドイツ・イタリア・オーストリア・日本
義和団を鎮圧後に、日本軍は北京に入城した。日本軍は軍規(軍隊の規律)に厳しく、上は司令官から下は一兵卒に至るまで、徹底して秩序が維持されていた。市民からの略奪などもせず、ひたすら治安の維持回復に努めたため、北京市民からも非常に信頼されていた。実際に、「大日本順民」(「日本に順(したが)う市民」の義)と書かれた紙や布を振られて「歓迎」されていた。
また、事件後に北京駐在武官だった柴五郎陸軍中佐が、清国政府の要請で「軍事衙門長官」(列強駐留軍総司令官)に就任したのである。「軍事衙門長官」という職務は、8ヶ国連合軍の最高司令官である。彼が北京の治安維持に尽力していたのも事実である。
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昭和12(1937)年7月7日の「廬溝橋事件」から、昭和20年8月15日の終戦まで、実に8年間の長期にわたって続いたのが「日中戦争」(支那事変・日華事変)である。
この「日中戦争」を、支那は日本軍国主義による「中国侵略」だと主張してきた。この主張に基づいて、中国は日本の歴代政権に対し、繰り返し「過去の戦争責任」の追求と「正しい歴史認識」の強要をしてきた。
しかし、過去の投稿「廬溝橋事件①&②」を思い出して頂きたい。
廬溝橋事件①
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廬溝橋事件②
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「廬溝橋事件」で日本に事を構えさせるように仕向けたのは、現在「中華人民共和国」として支那の政権を握っている支那共産党だったわけだ。
つまり、日本側には最初から「中国侵略」などと言う野望はなかったわけだ。その証拠に、「廬溝橋事件」の発生から間もなくして、日本軍は事件不拡大方針を表明している。事態の沈静化と早期の終息を願っていたが故の動きである。だから、日本側としては、もはや国民党軍と事を構えたくはなかった。支那との全面戦争など欲していなかったのである。
しかし、こうした言論に対して、偏向左翼や反日勢力は反発する。当時の日本軍が支那に「駐留」していたこと自体に、侵略の意図があるのだと主張する者もいる。ところが、日本軍の支那駐留と「日中戦争」とには、何ら直接的関係はなかったのだ。それでは、「中国侵略」が虚構である根拠を「日本軍の支那駐留」を軸にして、以下に書いてみる。
まず、最初に書いておくべき事がある。それは、日本軍の支那進駐という事実は、「中国侵略」の証拠にならないということである。当時、確かに日本軍は支那に駐留していた。しかし、決して「侵略」をしてはいなかった。
日本軍が支那に最初に進駐したのは、明治33(1900)年のことである。まさに「義和団事件」が発生した時だった。1月22日に列国公使団が、暴徒・匪賊の集まりであった「義和団」の鎮圧を、清国政府に対して要求した。だが、この機会に列強勢力を支那から駆逐したいと考えていた西太后ら保守派は、逆に「義和団」を支持したのである。
4月22日、西太后の支援を受けた「義和団」が、首都・北京に入城した。すると北京の治安は急速に悪化し、社会は混乱に陥った。更に、外国人(列強諸国の居留民)排斥を唱えて、列強公使館に「進軍」する状況になった。
それに呼応して5月31日に、居留民保護と治安回復を目的とした(注)8ヶ国連合軍が北京に出兵した。つまり、8ヶ国連合軍の一員として、日本軍は進駐したのに過ぎないのである。そもそも「侵略」を意図したものではなかった。
(注)8ヶ国連合軍を構成した国家
イギリス・フランス・アメリカ・ロシア・ドイツ・イタリア・オーストリア・日本
義和団を鎮圧後に、日本軍は北京に入城した。日本軍は軍規(軍隊の規律)に厳しく、上は司令官から下は一兵卒に至るまで、徹底して秩序が維持されていた。市民からの略奪などもせず、ひたすら治安の維持回復に努めたため、北京市民からも非常に信頼されていた。実際に、「大日本順民」(「日本に順(したが)う市民」の義)と書かれた紙や布を振られて「歓迎」されていた。
また、事件後に北京駐在武官だった柴五郎陸軍中佐が、清国政府の要請で「軍事衙門長官」(列強駐留軍総司令官)に就任したのである。「軍事衙門長官」という職務は、8ヶ国連合軍の最高司令官である。彼が北京の治安維持に尽力していたのも事実である。
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これは メッセージ 105442 (im66jp さん)への返信です.
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