Re: qoraboyさん、いつになったらまとまる
投稿者: keijiban1234 投稿日時: 2005/10/28 19:38 投稿番号: [101663 / 196466]
qoraboyさん、言葉が足りなくて理解できなかった様なのでもう一度コメントしますね。(質問1)に答えてください。
下記は貴方のコメント①です。
>①今の天気情報気象図からみても分かるように、琉球から台湾へ行くのが逆風の向かい風で、琉球船は態々釣魚島に立ち寄って大陸へ行くのには無理がある。仮に、琉球船が大陸に行く回数が多くても、明朝から倭寇を防ぐために、同島を海上防御海域として指定し、清朝からも、「境、溝」という表現を使って、はっきりと中国の領土としてあることに変わりはない。
それに対する私のコメント(《1》《2》)は下記です。
《1》上記の貴方のコメントを見て、矛盾していることに気づいてください。
「天気情報気象図からみて、琉球船は態々釣魚島に立ち寄って大陸へ行くのには無理がある。」と書いているのにどうして、「明朝から倭寇を防ぐために、同島を海上防御海域として指定」しているの???
まず、このコメントで質問したかった事は、「天気情報気象図からみて、琉球船は態々釣魚島に立ち寄って大陸へ行くのには無理がある。」のコメントは尖閣が往来の航路として使われていたことを否定しているのです。
そして、「明朝から倭寇を防ぐために、同島を海上防御海域として指定」のコメントは尖閣が往来航路として使われていた事を肯定しているのです。
要するに貴方は、尖閣を航路としていたのは冊封船だけなのか、それとも琉球船も航路としていたのかを自分なりに考える必要があるのです。(質問1)
だから矛盾していると書いたのです。
私は、冊封船も琉球船も尖閣の航路が使われていた。と考えているので《2》のコメントを書きました。
《2》琉球船は態々釣魚島に立ち寄って大陸へ行く航路が使われていたと考えた方が自然ですよ。当時は、島々を目印にしながら航海しているのだから、中国だけでなく安南・シャムなどへ渡っていたこれらの琉球船も帰路尖閣列島を通っていたことはほぼ間違いないでしょう。
下記は貴方のコメント②です。
>②清朝は、琉球を冊封建するぐらいんだから、琉球を挟んでまで、釣魚島が台湾領に所属することが考えにくい。
それに対する私のコメントです。
そうです。当時尖閣はどの領土にも属していないのです。
(琉球・台湾・当時の中国のどこにも属していないのです。)
国(明・清)の行政が及ばない台湾から、更に遠くにある尖閣諸島を自国の領土であるとするのには無理がある。
ただ、航路上の目標として、たんに航海日誌や航路図において、あるいは旅情をたたえる漢詩の中に、便宜上に尖閣諸島の島嶼の名をあげているに過ぎないのでしょうね。
実際にそれらの資料からも琉球から中国への使節団の派遣回数の方が圧倒的に多いことから、尖閣諸島に対する知識も日本人の方が正確であった。
これに対する貴方のコメントは
中国は中国の「界」、「溝」とはっきりとしているよ。
これに関しては下記を参考にして下さい。
『汪楫『使琉球雑録』(一六八三年)における「中外之界」についても同様であった、台湾はかれが琉球からの帰国の途につこうとするころに、海師施琅によって平定されたにすぎず、「郊」の意味をめぐる汪楫とのやりとりのときには、未だ中国の版図に入っていなかったのである。事実往楫使録でも問題の水域を「過郊」と記してはいたが、過界とか『過中之界』としていないのである。そればかりでなく「過郊」のところで「溝ともいう」と説明していたのである。さらに井上氏の指摘とは反対に、周煌は「琉球国志略」巻五で、この溝を「中外之界」ではなく「■(※注2)界の界」と明記しているのである。
加えて周煌は、使録の「志餘」において、「汪楫使録」の「郊」をすべて改め、「溝」と」書直している。
当時、黒水溝が、「■(※注2)海の界」と呼ばれていたことは、周煌の次の李鼎元使録でも説明されている。かくして当時においえも「溝」は、単に琉球海と■(※注2)海との海上の特色を示す意味しかなかったのである。
なお、郭舜功「日本一鑑」、郭若層「籌海図編」、林子平「三国通覧図説」についての筆者の考えは、別の論文(「日本及び日本人」73年新春号)でも既にあきらかにしているので、紙数の関係もあり、略する。』
■(※注2) 門に虫 これもATOKにはあるがWORDのコードにないため文字にならない。
下記は貴方のコメント①です。
>①今の天気情報気象図からみても分かるように、琉球から台湾へ行くのが逆風の向かい風で、琉球船は態々釣魚島に立ち寄って大陸へ行くのには無理がある。仮に、琉球船が大陸に行く回数が多くても、明朝から倭寇を防ぐために、同島を海上防御海域として指定し、清朝からも、「境、溝」という表現を使って、はっきりと中国の領土としてあることに変わりはない。
それに対する私のコメント(《1》《2》)は下記です。
《1》上記の貴方のコメントを見て、矛盾していることに気づいてください。
「天気情報気象図からみて、琉球船は態々釣魚島に立ち寄って大陸へ行くのには無理がある。」と書いているのにどうして、「明朝から倭寇を防ぐために、同島を海上防御海域として指定」しているの???
まず、このコメントで質問したかった事は、「天気情報気象図からみて、琉球船は態々釣魚島に立ち寄って大陸へ行くのには無理がある。」のコメントは尖閣が往来の航路として使われていたことを否定しているのです。
そして、「明朝から倭寇を防ぐために、同島を海上防御海域として指定」のコメントは尖閣が往来航路として使われていた事を肯定しているのです。
要するに貴方は、尖閣を航路としていたのは冊封船だけなのか、それとも琉球船も航路としていたのかを自分なりに考える必要があるのです。(質問1)
だから矛盾していると書いたのです。
私は、冊封船も琉球船も尖閣の航路が使われていた。と考えているので《2》のコメントを書きました。
《2》琉球船は態々釣魚島に立ち寄って大陸へ行く航路が使われていたと考えた方が自然ですよ。当時は、島々を目印にしながら航海しているのだから、中国だけでなく安南・シャムなどへ渡っていたこれらの琉球船も帰路尖閣列島を通っていたことはほぼ間違いないでしょう。
下記は貴方のコメント②です。
>②清朝は、琉球を冊封建するぐらいんだから、琉球を挟んでまで、釣魚島が台湾領に所属することが考えにくい。
それに対する私のコメントです。
そうです。当時尖閣はどの領土にも属していないのです。
(琉球・台湾・当時の中国のどこにも属していないのです。)
国(明・清)の行政が及ばない台湾から、更に遠くにある尖閣諸島を自国の領土であるとするのには無理がある。
ただ、航路上の目標として、たんに航海日誌や航路図において、あるいは旅情をたたえる漢詩の中に、便宜上に尖閣諸島の島嶼の名をあげているに過ぎないのでしょうね。
実際にそれらの資料からも琉球から中国への使節団の派遣回数の方が圧倒的に多いことから、尖閣諸島に対する知識も日本人の方が正確であった。
これに対する貴方のコメントは
中国は中国の「界」、「溝」とはっきりとしているよ。
これに関しては下記を参考にして下さい。
『汪楫『使琉球雑録』(一六八三年)における「中外之界」についても同様であった、台湾はかれが琉球からの帰国の途につこうとするころに、海師施琅によって平定されたにすぎず、「郊」の意味をめぐる汪楫とのやりとりのときには、未だ中国の版図に入っていなかったのである。事実往楫使録でも問題の水域を「過郊」と記してはいたが、過界とか『過中之界』としていないのである。そればかりでなく「過郊」のところで「溝ともいう」と説明していたのである。さらに井上氏の指摘とは反対に、周煌は「琉球国志略」巻五で、この溝を「中外之界」ではなく「■(※注2)界の界」と明記しているのである。
加えて周煌は、使録の「志餘」において、「汪楫使録」の「郊」をすべて改め、「溝」と」書直している。
当時、黒水溝が、「■(※注2)海の界」と呼ばれていたことは、周煌の次の李鼎元使録でも説明されている。かくして当時においえも「溝」は、単に琉球海と■(※注2)海との海上の特色を示す意味しかなかったのである。
なお、郭舜功「日本一鑑」、郭若層「籌海図編」、林子平「三国通覧図説」についての筆者の考えは、別の論文(「日本及び日本人」73年新春号)でも既にあきらかにしているので、紙数の関係もあり、略する。』
■(※注2) 門に虫 これもATOKにはあるがWORDのコードにないため文字にならない。
これは メッセージ 101603 (qoraboy さん)への返信です.
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