李朝朝鮮の飢餓地獄
投稿者: baribaripati 投稿日時: 2007/09/15 04:36 投稿番号: [32 / 175]
本誌55号では、北朝鮮の悲惨な食糧事情により、年間数十万人規
模の餓死者が出ているという推計を紹介した。しかし朝鮮半島での
飢餓地獄は今に始まった事ではなく、19世紀の李朝時代も同様だ
った。
●たとえばフランス人宣教師シャルル・ダレの遺した「朝鮮事情」
には、次のような記述がある。
1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲
い、国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人々のなかに
は、
●娘を中国人の密航業者に一人当たり米一升で売るものもい
た。北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人か
の朝鮮人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、
●「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。
● しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの
食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを
放置しておく道を選んだ。[1,p64]
●まさに現在の金正日政権とそっくりだ。こういう次第であったか
ら、李朝時代の朝鮮では人口はほとんど増加しなかった。1753年の
730万人が、百年後の1850年でも、750万人になったに過ぎない。こ
れが当時の農業生産で養える上限だったのであろう。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog056.html
.植林、河川・砂防工事、ダム建設、、、■
●李朝時代の飢餓の一因は、●現在の北朝鮮と同様、森林破壊にあっ
た。定住しない焼き畑農民は、山林を焼き払い、一定期間耕作する
と、他へ移ってしまう。さらに、冬季の薪需要のための乱伐。そこ
に豪雨が来れば、表土は流出し、禿げ山となってしまう。
1885年にソウルから北朝鮮を徒歩で踏破した旅行者は次のような
旅行記を残している。
●どこまでいっても禿げ山と赤土ばかりで、草も全て燃料のた
めに刈り取られている。
山地が痩せていて、昨年も沢山の餓死者が出た。
ここは退屈極まりない土地で、山は禿げ山、植生はほとんど
見られない。
●森林は緑のダムである。森林がなくなれば、降れば洪水、降らね
ば干ばつとなって、農業生産は崩壊する。治水の前に治山が必要と
いうのが、
●寺内初代総督の方針であった。朝鮮総督府は1911年から
の30年間で、
●5億9千万本の植林を行った。朝鮮全人口の一人あ
たり約25本という膨大な数である。[1,p114]
内村鑑三の日記には、ある朝鮮人から日本人が毎年沢山の有用樹
木の苗木を植えていることを感謝する手紙をもらって非常にうれし
かったと書いている。[2,p39]
●植林事業と平行して、
●洪水予防と灌漑のための全国的な河川事業、
日本国内にもなかった17万キロワット級のいくつもの巨大水力発
電所建設、15万ヘクタール以上もの砂防工事等々、大規模かつ総
合的な国土開発事業が展開された。
これらの結果、水田開発が進み、明治43年の84万町歩が、昭
和3年ごろには162万町歩と倍増した。[1,p108
模の餓死者が出ているという推計を紹介した。しかし朝鮮半島での
飢餓地獄は今に始まった事ではなく、19世紀の李朝時代も同様だ
った。
●たとえばフランス人宣教師シャルル・ダレの遺した「朝鮮事情」
には、次のような記述がある。
1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲
い、国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人々のなかに
は、
●娘を中国人の密航業者に一人当たり米一升で売るものもい
た。北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人か
の朝鮮人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、
●「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。
● しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの
食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを
放置しておく道を選んだ。[1,p64]
●まさに現在の金正日政権とそっくりだ。こういう次第であったか
ら、李朝時代の朝鮮では人口はほとんど増加しなかった。1753年の
730万人が、百年後の1850年でも、750万人になったに過ぎない。こ
れが当時の農業生産で養える上限だったのであろう。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog056.html
.植林、河川・砂防工事、ダム建設、、、■
●李朝時代の飢餓の一因は、●現在の北朝鮮と同様、森林破壊にあっ
た。定住しない焼き畑農民は、山林を焼き払い、一定期間耕作する
と、他へ移ってしまう。さらに、冬季の薪需要のための乱伐。そこ
に豪雨が来れば、表土は流出し、禿げ山となってしまう。
1885年にソウルから北朝鮮を徒歩で踏破した旅行者は次のような
旅行記を残している。
●どこまでいっても禿げ山と赤土ばかりで、草も全て燃料のた
めに刈り取られている。
山地が痩せていて、昨年も沢山の餓死者が出た。
ここは退屈極まりない土地で、山は禿げ山、植生はほとんど
見られない。
●森林は緑のダムである。森林がなくなれば、降れば洪水、降らね
ば干ばつとなって、農業生産は崩壊する。治水の前に治山が必要と
いうのが、
●寺内初代総督の方針であった。朝鮮総督府は1911年から
の30年間で、
●5億9千万本の植林を行った。朝鮮全人口の一人あ
たり約25本という膨大な数である。[1,p114]
内村鑑三の日記には、ある朝鮮人から日本人が毎年沢山の有用樹
木の苗木を植えていることを感謝する手紙をもらって非常にうれし
かったと書いている。[2,p39]
●植林事業と平行して、
●洪水予防と灌漑のための全国的な河川事業、
日本国内にもなかった17万キロワット級のいくつもの巨大水力発
電所建設、15万ヘクタール以上もの砂防工事等々、大規模かつ総
合的な国土開発事業が展開された。
これらの結果、水田開発が進み、明治43年の84万町歩が、昭
和3年ごろには162万町歩と倍増した。[1,p108
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