Re.宗教の寛容性
投稿者: waoholmes2001 投稿日時: 2001/09/20 12:56 投稿番号: [57848 / 177456]
私は、ほかの宗教者には寛容ですし否定もしません。昨日上げたんですが、日本の根本思想は「儒教(宗教ではなく精神論)」に在ると持っています。自分の中の「倫理観」、「価値観」の多くは其処に根ざしています。
だから、「親を敬い、兄弟を敬い」ますし、当然「人を傷つけること」等は例えクリスチャンじゃ無くてもしないでしょう。
って言うか、人間の持ってる「善の心」は世界共通そうでしょうね。
【結論】少なくても、私と私の家族、私の周りの信者さんは他宗教を否定しません。しかし、ある意味「伝道(一般的には勧誘と言われてしまいますが)対象者」としてはみています。変な例えかも知れませんが仮に「美味しいラーメン屋さんがあって、食べて感動したら人に薦めませんか?」我々の伝道はそれと似た行為です。
只無心に、(ある意味相手の迷惑を考えてないかも知れませんが?)とても良いから一度教会へおいでよ!!ってのは僕もよく言います(飲み屋の、お姉ちゃん)とかにも」。しかし、「強引な勧誘(エホバの証人とか見たいな)」は絶対しません。
その上、我々は「信仰告白」をして信者全員の同意が無ければ「信者」とは成りません。間違えないで欲しいですが、信仰心を持てば、その人は先ずは「求道者」と呼びます。ですから、教会に何かを求めて見えた方に対しては(仮に)「加藤さん」と呼びますが、信者同士は「加藤兄弟」に成ります。
【最後の質問へ】
我々は第一に神様(主イエス)を上位に持ってきます。しかし、人間の「欲」や「業」、「我」(仏教みたいだけど)はそう簡単には消えません。だから、非常に微妙ですが、「自我、自意識よりも優先させてそれを実行しているクリスチャンは、ある意味尊敬に値します」が、じゃあ「お前は?」と問われれば理屈の上では「神様優先」を言うでしょうが、日常生活でそれが出来てる人は少ないでしょう。つまり、それは我々の「理想」です。
ですから、僕はここに書き込むとき「自我」をなるべく押さえ、信仰心を表に出した表現をしますが、これは逆に言うと僕の「価値判断」に基づくものですので、矛盾しますよね。
そしてもう一つ、
>信仰を持つ方は自分の生の意見よりも信仰上の教えが優先されるのでしょうか?
私は、生きる為に信仰を持ちました。前にも書きましたが、高校時代「哲人カント」の死に様を本で読みました。彼もクリスチャンでしたが、生きてるうちには彼は生まれ故郷から1回か2回出ただけで、たいした名声も、富もありませんでした。その上彼は、ロボットのような生活を送り、たいした楽しみとしては午後友人と話すことぐらいだったらしいです。結婚もせず、病弱である意味とても神経細やかな人でした。
その彼が、今際の際で看護婦に「これで(全て)よかった」と言って息を引き取ったらしいです。これを読んで感動しました。そして、「自分が死ぬ時カントのように言おう」と心に覚悟と、決意を持ちました。
では?人間どうやって生きたらそうなれるのでしょうか?悩みました。哲学、宗教、心理学などを広く浅く学びながら出た結論は・・・と言うか迷っていた時この言葉に出会いました。イエスの言葉です。
「疲れた人、重荷を背をう人は誰でも私のところへ来なさい。私があなた方を休ませてあげよう。」
新約聖書 マタイによる福音書 11章28節
私は疲れていました、重荷も背負っていました。ですからこの言葉を教会の前で読んだ時、ワンワン泣きました(号泣です)。
僕でも助かる、と思ったからです。
そして、求道し洗礼を受け信者に成りました。
「教えが生の意見より優先されるか?」私の場合、「神様の恵みの上で生かされている」と言う意識がありますので「優先」しますが、誰にも強要しません。ちなみのうちの嫁さんは今のところノンクリスチャンです。でも、最近「あなたが変って来たから、なんとなく神様を受け入れるようになった」といっていました、感謝です。
長々と、文脈もばらばらでごめんなさい。
でも、あくまでこれは僕の「私見」の範疇を超えませんので、あしからず。
だから、「親を敬い、兄弟を敬い」ますし、当然「人を傷つけること」等は例えクリスチャンじゃ無くてもしないでしょう。
って言うか、人間の持ってる「善の心」は世界共通そうでしょうね。
【結論】少なくても、私と私の家族、私の周りの信者さんは他宗教を否定しません。しかし、ある意味「伝道(一般的には勧誘と言われてしまいますが)対象者」としてはみています。変な例えかも知れませんが仮に「美味しいラーメン屋さんがあって、食べて感動したら人に薦めませんか?」我々の伝道はそれと似た行為です。
只無心に、(ある意味相手の迷惑を考えてないかも知れませんが?)とても良いから一度教会へおいでよ!!ってのは僕もよく言います(飲み屋の、お姉ちゃん)とかにも」。しかし、「強引な勧誘(エホバの証人とか見たいな)」は絶対しません。
その上、我々は「信仰告白」をして信者全員の同意が無ければ「信者」とは成りません。間違えないで欲しいですが、信仰心を持てば、その人は先ずは「求道者」と呼びます。ですから、教会に何かを求めて見えた方に対しては(仮に)「加藤さん」と呼びますが、信者同士は「加藤兄弟」に成ります。
【最後の質問へ】
我々は第一に神様(主イエス)を上位に持ってきます。しかし、人間の「欲」や「業」、「我」(仏教みたいだけど)はそう簡単には消えません。だから、非常に微妙ですが、「自我、自意識よりも優先させてそれを実行しているクリスチャンは、ある意味尊敬に値します」が、じゃあ「お前は?」と問われれば理屈の上では「神様優先」を言うでしょうが、日常生活でそれが出来てる人は少ないでしょう。つまり、それは我々の「理想」です。
ですから、僕はここに書き込むとき「自我」をなるべく押さえ、信仰心を表に出した表現をしますが、これは逆に言うと僕の「価値判断」に基づくものですので、矛盾しますよね。
そしてもう一つ、
>信仰を持つ方は自分の生の意見よりも信仰上の教えが優先されるのでしょうか?
私は、生きる為に信仰を持ちました。前にも書きましたが、高校時代「哲人カント」の死に様を本で読みました。彼もクリスチャンでしたが、生きてるうちには彼は生まれ故郷から1回か2回出ただけで、たいした名声も、富もありませんでした。その上彼は、ロボットのような生活を送り、たいした楽しみとしては午後友人と話すことぐらいだったらしいです。結婚もせず、病弱である意味とても神経細やかな人でした。
その彼が、今際の際で看護婦に「これで(全て)よかった」と言って息を引き取ったらしいです。これを読んで感動しました。そして、「自分が死ぬ時カントのように言おう」と心に覚悟と、決意を持ちました。
では?人間どうやって生きたらそうなれるのでしょうか?悩みました。哲学、宗教、心理学などを広く浅く学びながら出た結論は・・・と言うか迷っていた時この言葉に出会いました。イエスの言葉です。
「疲れた人、重荷を背をう人は誰でも私のところへ来なさい。私があなた方を休ませてあげよう。」
新約聖書 マタイによる福音書 11章28節
私は疲れていました、重荷も背負っていました。ですからこの言葉を教会の前で読んだ時、ワンワン泣きました(号泣です)。
僕でも助かる、と思ったからです。
そして、求道し洗礼を受け信者に成りました。
「教えが生の意見より優先されるか?」私の場合、「神様の恵みの上で生かされている」と言う意識がありますので「優先」しますが、誰にも強要しません。ちなみのうちの嫁さんは今のところノンクリスチャンです。でも、最近「あなたが変って来たから、なんとなく神様を受け入れるようになった」といっていました、感謝です。
長々と、文脈もばらばらでごめんなさい。
でも、あくまでこれは僕の「私見」の範疇を超えませんので、あしからず。
これは メッセージ 57176 (rinagisu さん)への返信です.
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