「戦後」60年_9
投稿者: pyu_pyu_kitakaze 投稿日時: 2005/08/03 20:18 投稿番号: [173720 / 177456]
暴力で締めつけた日本軍の実態
(抜き書き)
〜一緒に入隊した人のなかには、視力の弱い人から足に障害のある人、40過ぎの所帯持ちのおじさんまで、私たちと同じ星一つの新兵として召集されたのです。 そうした新兵を一年兵、二年兵、三年兵などの古参兵が、年齢からいえば親父か兄貴みたいな新兵をしごいたのです。
しごきの前に、まず近視の者はメガネを外せと言うから、なぜメガネを外すのかと思うと、殴られたらメガネが飛び散るからでした。
一番ひどいビンタは、鋲が入っている革靴の底で殴られると顔が腫れ上がってしまう。もっとひどいのは、4,5人掛けの椅子を力自慢の上級兵が振り上げて 10人ほど並んでいる兵隊をなぎ倒すのです。3番目ぐらいまでに並んでいる者はまともに当たりますからね、私は小さいから一番後ろで助かったのですが、そんなビンタを顔が歪むくらい毎週やられました。
数ヵ月に一回位は連隊長か師団長が隊内視察に来るのですが、それがあらかじめ分かっているから一週間ほど前からは殴らないんですよ。一応軍隊の内規では私的制裁はいかんということになっていましたからね。
みじめだったのは、私がいた部隊では、戦争末期に入ると米飯が減って皮つきのジャガイモなどが主食で消化不良を起こしたりしました。どんどん食事の量も減っていきました。満州で収穫したコウリャンめしで下痢ばかり起こしたものです。
炊事当番に当たって飯上げに行った途中で、飯びつに顔を突っ込んで口に詰め込む者がいるほどひもじいのです。それがバレた兵隊の中にはお寺の僧侶がいましたが、気の毒につるし上げられてムチャクチャにやられましてね。
炊事当番が飯をつぐのを皆がジッと見つめているのですよ、おれの飯は他より少なくはないかと。中には分からないように飯をヘラで押さえつけて量をふやす者もあって、食べ物が乏しくなったら人間性の尊厳もあったものやないですね。
〜私が入隊した当初は星一つの二等兵でしたが、僅か3ヵ月目で星3つの上等兵になったのです。そうすると古参兵たちが、昨日まで自分の子分か手下か奴隷みたいにしごいていた新兵が幹部候補生に合格したとたんに階級が上がり、その新参の兵隊から今度はしごかれる立場へと逆転するわけです。
ですから古参兵は私たちが幹部候補生になることを嫌うのです。ところが上部の命令ですから断るわけにいかんのです。
すると、私たちの隊内に50人ほどいた新兵のうち3人が脱走して行方不明になりましてね、これが全員の連帯責任ということでしらみ潰しに探させられた結 果、1人は営内のトイレで首つり自殺していました。また1人は近くの池に浮かんでいたのです。もう1人は親元に帰っているところを捕まって営倉(軍隊内の 留置場)に入れられたのです。(犯した行為の軽重により、重営倉・軽営倉がありました)
これが見せしめになって、それからは脱走して捕まれば拷問同様のひどい仕打ちをうけるという恐怖感に襲われたものです。
〜軍隊生活から解散して帰郷するに当たって、古い毛布2枚と米5キロぐらいを貰って、無蓋列車に乗って大阪の堺へ帰って来ました。後で聞いた話ですが、上官の将校連中は、砂糖とか新品毛布30枚とか兵隊に運ばして私物化した連中がいたということです。
礼儀正しさや訓練の厳しさで世界に誇るといわれた日本軍の軍律などもろいもので、影も形もなくなっていましたね。あれだけスパルタ的に特権と命令で締めつけられていた軍隊が、ちょうど桶のタガが外れたのと同様でバラバラになってしまった感がしました。
陸軍士官学校出の将校に兵隊はずいぶんしごかれたから、かつての部下から袋叩きに遭った将校もだいぶんおりましたね。「許してくれ、悪かった」と言うて平謝りしていた人もいましたが。
〜一方、先輩の戦友から、野戦病院でいまわのきわに母親の名を呼んで息を引き取ったという話もよく聞きましたね。
例えば、私がいた部隊の上官の弟さんが中国戦線で機関銃で撃たれて両眼両耳を失って、野戦病院から九州方面に移送されて、お母さんが駆けつけて息子の名を 呼んでも、目は見えないし耳もやられて聞こえないので、そっと乳房を触らせると、その兵士は最後に「お母さん」と一声叫んで息絶えたそうです。
(以下略)
http://www.geocities.jp/shougen60/shougen-list/m-T14-1.html
60年目の証言
http://www.geocities.jp/shougen60/index.html
(抜き書き)
〜一緒に入隊した人のなかには、視力の弱い人から足に障害のある人、40過ぎの所帯持ちのおじさんまで、私たちと同じ星一つの新兵として召集されたのです。 そうした新兵を一年兵、二年兵、三年兵などの古参兵が、年齢からいえば親父か兄貴みたいな新兵をしごいたのです。
しごきの前に、まず近視の者はメガネを外せと言うから、なぜメガネを外すのかと思うと、殴られたらメガネが飛び散るからでした。
一番ひどいビンタは、鋲が入っている革靴の底で殴られると顔が腫れ上がってしまう。もっとひどいのは、4,5人掛けの椅子を力自慢の上級兵が振り上げて 10人ほど並んでいる兵隊をなぎ倒すのです。3番目ぐらいまでに並んでいる者はまともに当たりますからね、私は小さいから一番後ろで助かったのですが、そんなビンタを顔が歪むくらい毎週やられました。
数ヵ月に一回位は連隊長か師団長が隊内視察に来るのですが、それがあらかじめ分かっているから一週間ほど前からは殴らないんですよ。一応軍隊の内規では私的制裁はいかんということになっていましたからね。
みじめだったのは、私がいた部隊では、戦争末期に入ると米飯が減って皮つきのジャガイモなどが主食で消化不良を起こしたりしました。どんどん食事の量も減っていきました。満州で収穫したコウリャンめしで下痢ばかり起こしたものです。
炊事当番に当たって飯上げに行った途中で、飯びつに顔を突っ込んで口に詰め込む者がいるほどひもじいのです。それがバレた兵隊の中にはお寺の僧侶がいましたが、気の毒につるし上げられてムチャクチャにやられましてね。
炊事当番が飯をつぐのを皆がジッと見つめているのですよ、おれの飯は他より少なくはないかと。中には分からないように飯をヘラで押さえつけて量をふやす者もあって、食べ物が乏しくなったら人間性の尊厳もあったものやないですね。
〜私が入隊した当初は星一つの二等兵でしたが、僅か3ヵ月目で星3つの上等兵になったのです。そうすると古参兵たちが、昨日まで自分の子分か手下か奴隷みたいにしごいていた新兵が幹部候補生に合格したとたんに階級が上がり、その新参の兵隊から今度はしごかれる立場へと逆転するわけです。
ですから古参兵は私たちが幹部候補生になることを嫌うのです。ところが上部の命令ですから断るわけにいかんのです。
すると、私たちの隊内に50人ほどいた新兵のうち3人が脱走して行方不明になりましてね、これが全員の連帯責任ということでしらみ潰しに探させられた結 果、1人は営内のトイレで首つり自殺していました。また1人は近くの池に浮かんでいたのです。もう1人は親元に帰っているところを捕まって営倉(軍隊内の 留置場)に入れられたのです。(犯した行為の軽重により、重営倉・軽営倉がありました)
これが見せしめになって、それからは脱走して捕まれば拷問同様のひどい仕打ちをうけるという恐怖感に襲われたものです。
〜軍隊生活から解散して帰郷するに当たって、古い毛布2枚と米5キロぐらいを貰って、無蓋列車に乗って大阪の堺へ帰って来ました。後で聞いた話ですが、上官の将校連中は、砂糖とか新品毛布30枚とか兵隊に運ばして私物化した連中がいたということです。
礼儀正しさや訓練の厳しさで世界に誇るといわれた日本軍の軍律などもろいもので、影も形もなくなっていましたね。あれだけスパルタ的に特権と命令で締めつけられていた軍隊が、ちょうど桶のタガが外れたのと同様でバラバラになってしまった感がしました。
陸軍士官学校出の将校に兵隊はずいぶんしごかれたから、かつての部下から袋叩きに遭った将校もだいぶんおりましたね。「許してくれ、悪かった」と言うて平謝りしていた人もいましたが。
〜一方、先輩の戦友から、野戦病院でいまわのきわに母親の名を呼んで息を引き取ったという話もよく聞きましたね。
例えば、私がいた部隊の上官の弟さんが中国戦線で機関銃で撃たれて両眼両耳を失って、野戦病院から九州方面に移送されて、お母さんが駆けつけて息子の名を 呼んでも、目は見えないし耳もやられて聞こえないので、そっと乳房を触らせると、その兵士は最後に「お母さん」と一声叫んで息絶えたそうです。
(以下略)
http://www.geocities.jp/shougen60/shougen-list/m-T14-1.html
60年目の証言
http://www.geocities.jp/shougen60/index.html
これは メッセージ 173712 (pyu_pyu_kitakaze さん)への返信です.
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