ファッルージャ
投稿者: pyu_pyu_kitakaze 投稿日時: 2004/12/06 22:21 投稿番号: [172424 / 177456]
ファッルージャでの米軍の卑劣な蛮行
エジプト誌が米軍事報告書を暴露
11月22日付の特異で幅広い情報網を持つエジプトのリベラル系高級政治週刊誌、アル・オスブーは、米国の内部報告書に基づくムスターファ・バクリー編集長の署名入りの記事を掲載した。
米軍が作成したイラクのファッルージャ総攻撃計画では、バグダード陥落前に使用したものと同一の武器を使用することになっていた。よって犠牲者は全ての予想を上回る記録的なものになると誰もが確信していた。
そのころファッルージャの住民は疎開を決めていた。一方数万人の住民は、米軍によって押し戻され町から避難出来なかった。一部の住民が、「米軍の避難勧 告に応えて町を出て来たのだ」と抗議したが、米軍の高級将校の返答は次のようなものだった。「あの呼び掛けは報道機関に対するもので住民に対するものでは ない。米軍はお前たちがテロリストでなくとも皆殺しにすることを決めたのだ。お前たちはテロリストたちを匿い、飲食物や武器を提供したのだからな」
ファッルージャに住民たちが戻った後、この将校の言葉が町中に広がった。住民の多数、特に女性、子供、老人は、背後の道路を通り町から脱出することを決めていた。
米軍将校のこの発言は、それまでイラク抵抗勢力に未参加の多数の青年の激情を刺激した。子供や老人、女性の脱出支援を主目的とするいくつもの青年グルー プが結成された。多数の青年が抵抗勢力に加わり米兵と対決するためにファッルージャ残留を決めた。戦闘直前にはファッルージャに、イラク人が指揮を執る主 要4師団が編成された。
ファッルージャで開かれた全師団の司令官による準備会議で、ファッルージャ防衛に参加したアラブ・イスラムの全構成員に感謝の辞が贈られた。しかしイラ ク人たちは「ファッルージャの防衛はまず住民の手で」という標語の下に、彼らに前線ではなく後陣に位置するよう要請した。
米軍将校連の以下のような様々な発言が住民間に広まった。「俺たちがここに着いたらお前たちを生き埋めにしてやる。テロはこの町から拡散した。住民ごと町を殲滅し、新たに再建するのが最良の解決策だ」
これらの言葉は青年たちを激怒させ、第二師団内に志願部隊が作られた。この部隊には数日間で3万5千人の戦士が志願した。住民間に、米軍はファッルージャの住民を戦闘員であると否とに拘わらず皆殺しにすると脅迫したとの話が広まっていたのだ。
この頃ファッルージャの青年たちは、脱出を助けるために多数の女性、子供、老人を米軍の目に付かない抜け道に連れ出した。しかしある米軍機が脱出組の動きを監視しており、彼らに向けて砲弾を雨あられと浴びせた。80人の子供と、50人の女性、40人の60歳を超える老人と脱出作戦の指揮をしていた青年 20人が殉教した。
この事件が市内に伝わると青年や戦士たちに深刻な心理的影響をもたらしたが、米軍司令部はこの作戦を、「女性や子供を人質にして逃げ出そうとしていたテロリスト分子20人を殺害した」としてこの作戦を祝福した。
奇妙なことには、ペンタゴンに上げられたこの作戦の軍事報告書は、「子供や女性はテロリストたちの人質で、米軍機は人質をテロリストの手から救出しようとした。だがテロリストたちは米軍に発砲し、子供や女性、老人を殺害し始めたので、米軍機は青年たちを殺害せざるを得なくなった」と述べていることだ。
米軍司令部はファッルージャ内にこの報告内容を広めようとした。だが、住民は、戦闘など元来無く、米軍機が全員を殺害しただけであることを確認していた。
この頃米軍機は市内各地を猛爆し始め、民間人に夥しい数の犠牲者が出た。米国の初期の死亡者数の推測では、イラク人の子供が約3千人、女性が4千人、老人が1800人、青年が2千人である。この数値は初期のものだから無論その後増加している。
戦闘は激しかった。米兵300人が殺害されたことで、多数の米将兵は恐慌状態に陥り戦場から離脱した。米軍はイラク抵抗勢力と接近していたので、米軍機は介入できなかった。米国の複数報告書によると、抵抗戦士は素人ではなく戦闘訓練を受けた者たちであった。それにより、大部分は旧イラク軍の将兵であり、 抵抗勢力の4師団の司令官は旧イラク軍の高級司令官であると米国人は確信した。
結局米軍の右翼戦線では200人の米軍将兵が殺害され35人が捕虜になった。北部戦線では米軍の援軍が到着していなかったら、数百人を越える米兵が殺害 或いは捕虜となるところだった。(続く)
11月22日付の特異で幅広い情報網を持つエジプトのリベラル系高級政治週刊誌、アル・オスブーは、米国の内部報告書に基づくムスターファ・バクリー編集長の署名入りの記事を掲載した。
米軍が作成したイラクのファッルージャ総攻撃計画では、バグダード陥落前に使用したものと同一の武器を使用することになっていた。よって犠牲者は全ての予想を上回る記録的なものになると誰もが確信していた。
そのころファッルージャの住民は疎開を決めていた。一方数万人の住民は、米軍によって押し戻され町から避難出来なかった。一部の住民が、「米軍の避難勧 告に応えて町を出て来たのだ」と抗議したが、米軍の高級将校の返答は次のようなものだった。「あの呼び掛けは報道機関に対するもので住民に対するものでは ない。米軍はお前たちがテロリストでなくとも皆殺しにすることを決めたのだ。お前たちはテロリストたちを匿い、飲食物や武器を提供したのだからな」
ファッルージャに住民たちが戻った後、この将校の言葉が町中に広がった。住民の多数、特に女性、子供、老人は、背後の道路を通り町から脱出することを決めていた。
米軍将校のこの発言は、それまでイラク抵抗勢力に未参加の多数の青年の激情を刺激した。子供や老人、女性の脱出支援を主目的とするいくつもの青年グルー プが結成された。多数の青年が抵抗勢力に加わり米兵と対決するためにファッルージャ残留を決めた。戦闘直前にはファッルージャに、イラク人が指揮を執る主 要4師団が編成された。
ファッルージャで開かれた全師団の司令官による準備会議で、ファッルージャ防衛に参加したアラブ・イスラムの全構成員に感謝の辞が贈られた。しかしイラ ク人たちは「ファッルージャの防衛はまず住民の手で」という標語の下に、彼らに前線ではなく後陣に位置するよう要請した。
米軍将校連の以下のような様々な発言が住民間に広まった。「俺たちがここに着いたらお前たちを生き埋めにしてやる。テロはこの町から拡散した。住民ごと町を殲滅し、新たに再建するのが最良の解決策だ」
これらの言葉は青年たちを激怒させ、第二師団内に志願部隊が作られた。この部隊には数日間で3万5千人の戦士が志願した。住民間に、米軍はファッルージャの住民を戦闘員であると否とに拘わらず皆殺しにすると脅迫したとの話が広まっていたのだ。
この頃ファッルージャの青年たちは、脱出を助けるために多数の女性、子供、老人を米軍の目に付かない抜け道に連れ出した。しかしある米軍機が脱出組の動きを監視しており、彼らに向けて砲弾を雨あられと浴びせた。80人の子供と、50人の女性、40人の60歳を超える老人と脱出作戦の指揮をしていた青年 20人が殉教した。
この事件が市内に伝わると青年や戦士たちに深刻な心理的影響をもたらしたが、米軍司令部はこの作戦を、「女性や子供を人質にして逃げ出そうとしていたテロリスト分子20人を殺害した」としてこの作戦を祝福した。
奇妙なことには、ペンタゴンに上げられたこの作戦の軍事報告書は、「子供や女性はテロリストたちの人質で、米軍機は人質をテロリストの手から救出しようとした。だがテロリストたちは米軍に発砲し、子供や女性、老人を殺害し始めたので、米軍機は青年たちを殺害せざるを得なくなった」と述べていることだ。
米軍司令部はファッルージャ内にこの報告内容を広めようとした。だが、住民は、戦闘など元来無く、米軍機が全員を殺害しただけであることを確認していた。
この頃米軍機は市内各地を猛爆し始め、民間人に夥しい数の犠牲者が出た。米国の初期の死亡者数の推測では、イラク人の子供が約3千人、女性が4千人、老人が1800人、青年が2千人である。この数値は初期のものだから無論その後増加している。
戦闘は激しかった。米兵300人が殺害されたことで、多数の米将兵は恐慌状態に陥り戦場から離脱した。米軍はイラク抵抗勢力と接近していたので、米軍機は介入できなかった。米国の複数報告書によると、抵抗戦士は素人ではなく戦闘訓練を受けた者たちであった。それにより、大部分は旧イラク軍の将兵であり、 抵抗勢力の4師団の司令官は旧イラク軍の高級司令官であると米国人は確信した。
結局米軍の右翼戦線では200人の米軍将兵が殺害され35人が捕虜になった。北部戦線では米軍の援軍が到着していなかったら、数百人を越える米兵が殺害 或いは捕虜となるところだった。(続く)
これは メッセージ 172420 (pyu_pyu_kitakaze さん)への返信です.
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