「赦し」の可能性(2)
投稿者: katakurichan2 投稿日時: 2004/01/21 23:43 投稿番号: [162057 / 177456]
ポトーティさんの発言から、あと2つ、紹介します。
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(対談相手の大沢氏の「自分にとって、都合の悪い人、場合によっては敵に見える人、罪のあるように見える人に対してさえも、時には援助をしなければいけないときもあると思う」という発言を受けて)
ポトーティ氏
そのお考えに同感です。結局は、自分がいい「例題」になってみせるということだと思います。たとえばアメリカは民主主義だの何だのといっています。だけど、アメリカの実際の行為を見ると、民主主義のよさ、外からみてうらやましいというものではなくて、民主主義という名のもとにそうでないものが行われている。国内では民主主義が破られ、中東では民主主義というレッテルを貼った爆弾が頭の上に落っこってくる。これでは、私たちも努力してああなろうという例題にはなり得ない。(中略)
(日本の話でいうと)半世紀前、ヒバクシャがこんなに悲惨な思いをした。だから相手にも原爆を落とせとは言わないで、逆に憲法9条という平和憲法をつくった。やろうと思えばできる、そういう心のもちようもあるのだという、いい例題となってきたわけです。それがもうできなくなると思うと、非常に残念です。
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私はそれでも自分の兄のための報復をしているという気持ちはありますよ。ただ、その報復は暴力による報復ではない。むしろより真理を究めることによって、なぜこんなことが起きてしまったのかということをはっきりつかむことによって、もっと言えば、再びこういうことが起こらないために、真理を知りたいわけです。でも、絶対これをやってやるぞという報復的な気持ちはあります。暴力をつかってないけれど、これは戦いなのです。それは、愛の究極的な表現であると私は思っています。
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良い例題になってみせるということ。大事。
悪い例題ばっかり見せつけてくれる政治家には、うんざり。
これは メッセージ 162056 (katakurichan2 さん)への返信です.
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