普通に考えればわかることなのに
投稿者: come_on_I 投稿日時: 2002/07/20 09:47 投稿番号: [145201 / 177456]
普通に考えればわかることなのにだまされる人たちの歴史
「メイン号を忘れるな」:1895年、当時のスペイン領キューバで起こった独立運動に乗じて合衆国はアメリカ人保護を理由に戦艦メイン号をバハマ港に送り込んだ。ところが何者かによって戦艦が爆破され260人のアメリカ人が犠牲になった。当時のアメリカの大新聞、ジョセフ・ピュリッツアーの「ワールド」とウイリアム・ハーストの「ジャーナル」は米戦艦爆破はスペインの陰謀だと断定し、スペイン政府がいかにアメリカ人を過酷に弾圧しているかを誇大に書きまくった。「メイン号を忘れるな」の大合唱となりスペインに対する敵愾心の高まりの中で世論は対スペイン軍事制裁へ向かったのである。アメリカは1898年4月スペインに宣戦布告をするや当時ドル箱であったキューバ(世界一の砂糖産地)のみならず、フィリッピン、グアム、プエルトリコをあっという間に手中におさめたのである。開戦から70年後の1969年、米戦艦爆破の真犯人はスペインではなくアメリカ側であったことが合衆国から発表された。
「アラモを忘れるな」:1835年に今のテキサス州で起こった。当時メキシコ領であったテキサスに移住したアメリカ人達が合衆国指導のもとにテキサスの独立運動を起こしメキシコ軍と戦闘状態になった。当然アメリカ合衆国は独立義勇軍に対して資金支援してバックアップしたが、多勢に無勢でアメリカの義勇兵はアラモ砦に追い詰められる。デイビット・クロケットの英雄談は有名だが、それは200名の義勇兵がアラモで3000人のメキシコ兵と果敢に戦った模様を描いたものである。義勇軍は何度も何度も戦況を合衆国軍に伝え援軍を待ったが、合衆国は無視し、義勇軍の全滅を待った。そしてメキシコ軍がアラモを去った後、惨殺された義勇兵の惨状を誇大に宣伝し「アラモを忘れるな」で世論を煽り対メキシコ宣戦布告に突入した。その結果テキサス、ニューメキシコ、カリフォルニアを手に入れ、合衆国はメキシコの52%に当たる領土を手に入れることに成功した。
「パール・ハーバーを忘れるな」:1941年11月27日ハワイ在の太平洋艦隊司令官はルーズベルト大統領から“US military forces to let Japan commit the first overt act" (日本軍に先制攻撃をさせろ)の命令を受け、2隻の空母と新鋭艦19隻を外海に移動させ、老朽艦16隻だけ真珠湾に残し、日本の戦闘機が撃ち易いように直線に配置し、12月7日の日本軍の攻撃を待った。日本の真珠湾奇襲の知らせを受けた時のルーズベルトも、今回のジョージ・ブッシュも不思議なくらい冷静な表情だった。心は満足し、言葉だけで怒っているように見えた。ルーズベルトは日本軍の侵攻を察知した司令官を更迭し、さらにはレーダーを不能にするばかりか日本軍の潜水艦が入港出来るよう海門を開いた。日本の攻撃を成功に導いた後、2400名の米兵を殺した日本軍「騙まし撃ち」のニュースを全米に流し、当時戦争反対だったアメリカ世論を一変させた。こうしてアメリカは日、独、伊に対して宣戦布告をしたのである。「パール・ハーバーの真実」(文芸春秋社)を知れば「騙されたのは日本であった」ことがわかる。
トンキン湾事件
1964(昭和39)年8月
ベトナム戦争拡大の発端となった事件
1964(昭和39)年1月 アメリカ中央情報局(CIA)は秘密作戦計画34Aにより北ベトナム軍の基地、補給路への攻撃、レーダー網の攪乱を開始
8月2日 アメリカ海軍はトンキン湾公海上に駆逐艦「マドックス」(USS Maddox DD-731)を展開
これを34Aの一環と見た北ベトナム軍が魚雷攻撃を加える
8月4日 「マドックス」への再度の魚雷攻撃が報告されアメリカ軍はこれを口実に北ベトナムを攻撃
空母「タイコンデロガ」(USS Ticonderoga CV-14)艦載機が北ベトナム沿岸の魚雷艇基地を空襲した
8月7日 連邦議会は事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」を採択し、報復攻撃にゴー・サインを出したリンドン・ジョンソン大統領の演説を承認
現在では8月4日の北ベトナム軍の攻撃はなかったとする説が有力
(ロバート・マクナマラ国防長官(当時)が1995(平成7)年に「北ベトナム軍による二度目の攻撃はなかった」と著書で暴露)
オズワルド単独犯行説が初期の定説となったJFK暗殺や、湾岸戦争前に行われたアメリカの挑発行為の無視などは未だ完全な解明には到っていないが、事件の推移と誰が得をするかを考えれば容易に推測がつくことだ。
しかし、アメリカ万歳の人たちには通じない
「メイン号を忘れるな」:1895年、当時のスペイン領キューバで起こった独立運動に乗じて合衆国はアメリカ人保護を理由に戦艦メイン号をバハマ港に送り込んだ。ところが何者かによって戦艦が爆破され260人のアメリカ人が犠牲になった。当時のアメリカの大新聞、ジョセフ・ピュリッツアーの「ワールド」とウイリアム・ハーストの「ジャーナル」は米戦艦爆破はスペインの陰謀だと断定し、スペイン政府がいかにアメリカ人を過酷に弾圧しているかを誇大に書きまくった。「メイン号を忘れるな」の大合唱となりスペインに対する敵愾心の高まりの中で世論は対スペイン軍事制裁へ向かったのである。アメリカは1898年4月スペインに宣戦布告をするや当時ドル箱であったキューバ(世界一の砂糖産地)のみならず、フィリッピン、グアム、プエルトリコをあっという間に手中におさめたのである。開戦から70年後の1969年、米戦艦爆破の真犯人はスペインではなくアメリカ側であったことが合衆国から発表された。
「アラモを忘れるな」:1835年に今のテキサス州で起こった。当時メキシコ領であったテキサスに移住したアメリカ人達が合衆国指導のもとにテキサスの独立運動を起こしメキシコ軍と戦闘状態になった。当然アメリカ合衆国は独立義勇軍に対して資金支援してバックアップしたが、多勢に無勢でアメリカの義勇兵はアラモ砦に追い詰められる。デイビット・クロケットの英雄談は有名だが、それは200名の義勇兵がアラモで3000人のメキシコ兵と果敢に戦った模様を描いたものである。義勇軍は何度も何度も戦況を合衆国軍に伝え援軍を待ったが、合衆国は無視し、義勇軍の全滅を待った。そしてメキシコ軍がアラモを去った後、惨殺された義勇兵の惨状を誇大に宣伝し「アラモを忘れるな」で世論を煽り対メキシコ宣戦布告に突入した。その結果テキサス、ニューメキシコ、カリフォルニアを手に入れ、合衆国はメキシコの52%に当たる領土を手に入れることに成功した。
「パール・ハーバーを忘れるな」:1941年11月27日ハワイ在の太平洋艦隊司令官はルーズベルト大統領から“US military forces to let Japan commit the first overt act" (日本軍に先制攻撃をさせろ)の命令を受け、2隻の空母と新鋭艦19隻を外海に移動させ、老朽艦16隻だけ真珠湾に残し、日本の戦闘機が撃ち易いように直線に配置し、12月7日の日本軍の攻撃を待った。日本の真珠湾奇襲の知らせを受けた時のルーズベルトも、今回のジョージ・ブッシュも不思議なくらい冷静な表情だった。心は満足し、言葉だけで怒っているように見えた。ルーズベルトは日本軍の侵攻を察知した司令官を更迭し、さらにはレーダーを不能にするばかりか日本軍の潜水艦が入港出来るよう海門を開いた。日本の攻撃を成功に導いた後、2400名の米兵を殺した日本軍「騙まし撃ち」のニュースを全米に流し、当時戦争反対だったアメリカ世論を一変させた。こうしてアメリカは日、独、伊に対して宣戦布告をしたのである。「パール・ハーバーの真実」(文芸春秋社)を知れば「騙されたのは日本であった」ことがわかる。
トンキン湾事件
1964(昭和39)年8月
ベトナム戦争拡大の発端となった事件
1964(昭和39)年1月 アメリカ中央情報局(CIA)は秘密作戦計画34Aにより北ベトナム軍の基地、補給路への攻撃、レーダー網の攪乱を開始
8月2日 アメリカ海軍はトンキン湾公海上に駆逐艦「マドックス」(USS Maddox DD-731)を展開
これを34Aの一環と見た北ベトナム軍が魚雷攻撃を加える
8月4日 「マドックス」への再度の魚雷攻撃が報告されアメリカ軍はこれを口実に北ベトナムを攻撃
空母「タイコンデロガ」(USS Ticonderoga CV-14)艦載機が北ベトナム沿岸の魚雷艇基地を空襲した
8月7日 連邦議会は事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」を採択し、報復攻撃にゴー・サインを出したリンドン・ジョンソン大統領の演説を承認
現在では8月4日の北ベトナム軍の攻撃はなかったとする説が有力
(ロバート・マクナマラ国防長官(当時)が1995(平成7)年に「北ベトナム軍による二度目の攻撃はなかった」と著書で暴露)
オズワルド単独犯行説が初期の定説となったJFK暗殺や、湾岸戦争前に行われたアメリカの挑発行為の無視などは未だ完全な解明には到っていないが、事件の推移と誰が得をするかを考えれば容易に推測がつくことだ。
しかし、アメリカ万歳の人たちには通じない
これは メッセージ 1 (messages_admin さん)への返信です.
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