>>心
投稿者: katakurichan 投稿日時: 2002/05/26 01:09 投稿番号: [142367 / 177456]
>強烈な愛国心については、そういうものが流行しないように気をつけるということは必要かもしれませんね。
最近読んだ本で、関連しそうなところがあったので引用してみてよろしいでしょうかー。
「ナショナリズムとジェンダー」(上野千鶴子著/青土社)
「国民国家」というのは、比較的新しい概念である。80年代になってから、ポスト・コロニアル研究の分野で、ベネディクト・アンダーソンやホミ・バーバなどによって提唱されるととともに、その幻想性が明らかにされ、日本では西川長夫らによって精力的に用いられてきた。「近代化」のアクターとして「市場」や「市民社会」だけでなく、「国民国家」が欠かせない役割を演じており、「国民国家」は「国家統合のためのさまざまな装置」だけでなく「国民統合のためのイデオロギー」を供給している。アンダーソンの用語を借りれば、「国民国家」は均質的な「国民」の創出を通じて「幻想の共同性」をつくりだし、その「集団アイデンティティ」が「文化」や「民族」概念の核になった。その未完の「国民化」のプロジェクトからわたしたちは今日もな自由ではない。
80年代になってから、にわかに「国民国家」が分析概念として脚光を浴びた背景には、80年代の歴史の激動を通じて初めて「国家」が「宿命」としてのあり方から「脱自然化」された、というわたしたち自身の歴史被規定性を忘れることはできない。「国民国家」の相対化は、目の前で巨大な国家が崩壊することを通じて、近代が「市民社会」という自律的な領域を成立させたという通念に反して、国家の肥大した役割と「市民社会」の自律性を疑わせるという逆説的な働きのなかから生まれた。近代の成立の初めから国家は主要なアクターだったのであり、社会領域の「国家化」を推し進めてきた。それが壊れた後に、わたしたちは逆に国家がどれほど自明視されてきたか、に気づく。「国家」が「宿命」として受けとめられていたときに、その当事者がそれを超える視点を持たなかった、と「歴史の限界」を指摘する仕方は、つねに「後知恵」というほかない。
****
↑文章が難しいのですが、「国家」は必ずしも自明のものじゃないってことですよね?
えと、つまり、私は今、日本に住んでいて非常に幸せな日々を送っているのですが(と自分では思っているのですが)、でも「愛国心」っていう言葉にはやっぱり怖さがあって、その怖さはうまく説明ができませんが、とりあえず、「国家」というものの存在を大前提とした平和を目指さなくてもいいんだな、と思っただけでも安心しました。
ついでにもういっこ引用↓
えのきどいちろう公式HPから
。『民族という名の宗教』(なだいなだ著、岩波新書)を読んで、国民国家という19世紀的な概念が将来崩れていったときW杯はどうなるだろうと考える。僕のライフタイムには「国家の消失」というほどダイナミックな変化は起きないかも知れないが、少なくともEUの誕生は見届けたんである。3002年頃はクラブ世界戦になってるかも知れんなあ。この本読んでそんなこと考える奴もあんまりいないだろうけど。
http://enokidoichiro.com/diary02052.shtml#11
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サッカーW杯が始まるってことで、記念に(?)引用です。
最近読んだ本で、関連しそうなところがあったので引用してみてよろしいでしょうかー。
「ナショナリズムとジェンダー」(上野千鶴子著/青土社)
「国民国家」というのは、比較的新しい概念である。80年代になってから、ポスト・コロニアル研究の分野で、ベネディクト・アンダーソンやホミ・バーバなどによって提唱されるととともに、その幻想性が明らかにされ、日本では西川長夫らによって精力的に用いられてきた。「近代化」のアクターとして「市場」や「市民社会」だけでなく、「国民国家」が欠かせない役割を演じており、「国民国家」は「国家統合のためのさまざまな装置」だけでなく「国民統合のためのイデオロギー」を供給している。アンダーソンの用語を借りれば、「国民国家」は均質的な「国民」の創出を通じて「幻想の共同性」をつくりだし、その「集団アイデンティティ」が「文化」や「民族」概念の核になった。その未完の「国民化」のプロジェクトからわたしたちは今日もな自由ではない。
80年代になってから、にわかに「国民国家」が分析概念として脚光を浴びた背景には、80年代の歴史の激動を通じて初めて「国家」が「宿命」としてのあり方から「脱自然化」された、というわたしたち自身の歴史被規定性を忘れることはできない。「国民国家」の相対化は、目の前で巨大な国家が崩壊することを通じて、近代が「市民社会」という自律的な領域を成立させたという通念に反して、国家の肥大した役割と「市民社会」の自律性を疑わせるという逆説的な働きのなかから生まれた。近代の成立の初めから国家は主要なアクターだったのであり、社会領域の「国家化」を推し進めてきた。それが壊れた後に、わたしたちは逆に国家がどれほど自明視されてきたか、に気づく。「国家」が「宿命」として受けとめられていたときに、その当事者がそれを超える視点を持たなかった、と「歴史の限界」を指摘する仕方は、つねに「後知恵」というほかない。
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↑文章が難しいのですが、「国家」は必ずしも自明のものじゃないってことですよね?
えと、つまり、私は今、日本に住んでいて非常に幸せな日々を送っているのですが(と自分では思っているのですが)、でも「愛国心」っていう言葉にはやっぱり怖さがあって、その怖さはうまく説明ができませんが、とりあえず、「国家」というものの存在を大前提とした平和を目指さなくてもいいんだな、と思っただけでも安心しました。
ついでにもういっこ引用↓
えのきどいちろう公式HPから
。『民族という名の宗教』(なだいなだ著、岩波新書)を読んで、国民国家という19世紀的な概念が将来崩れていったときW杯はどうなるだろうと考える。僕のライフタイムには「国家の消失」というほどダイナミックな変化は起きないかも知れないが、少なくともEUの誕生は見届けたんである。3002年頃はクラブ世界戦になってるかも知れんなあ。この本読んでそんなこと考える奴もあんまりいないだろうけど。
http://enokidoichiro.com/diary02052.shtml#11
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サッカーW杯が始まるってことで、記念に(?)引用です。
これは メッセージ 142353 (aznrsrsnsn さん)への返信です.
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