これは「戦争」ではない・・・(1)
投稿者: chottomato2 投稿日時: 2002/01/10 21:54 投稿番号: [129811 / 177456]
『カブールで考えたこと』
この身で風景に分け入り、ありとある感官を総動員して紡ぐ言葉と、書斎で想像をたくましくしてつづる文言の「誤差」が、どうにも気になってしかたがなかった。だから、私はカブールに行ってみた。果たして、誤差はどうだったのか。ほんの短期間の取材だったけれども、米軍によるアフガニスタン報復攻撃につよく反対する私の考え方には、毫も変化がなかった。この点、修正の要はない。いや、アフガン取材後、非道な報復攻撃への憤りは、かえっていやましにつのった、といっておこう。ただ、もともとの想定をあらためざるをえない点、そして、風景の細部なのだけれど私にとっては大きな発見が、いくつかあった。
ターコイズブルーの絵の具を塗り、上薬をかけ、さらに布で丁寧に磨きたてたようなカブールの空に、私はいつも見ほれていた。市内のアスマイ山頂から見はるかす街並みも、賢者たちの設計による中世の都市の遺跡に似て、なにやら夢見心地になるほど美しい。そう、この街を見るときに、ふさぎこまないですむやり方を私は考えだそうとした。いわば、悲しみを避けるための遠近法だ。それは、空を見上げているか、もしくは、なるべく遠目に像を見ること。
武力制圧者の「正義」
だが、そんな遠近法は、実際には、荒ぶる風景にたちまちにして壊されてしまう。国連機でカブールのバグラム空港に降り立ったそのときから、怒り、悲嘆、疑問が、胸底でたぎりはじめるのだ。空港で私の荷物チェックをしたのは、アフガンの係官ではなく、米海兵隊員とその軍用犬であった。いかなる手続きをへて米国がそうした権限を得るにいたったか問うても、まともな答えは返ってこないであろう。武力で制圧した者が、ここでは「正義」なのである。
遠目にしていようという心の声を振りきって、私の眼はたくさんの人の眼に吸い寄せられていった。たとえば、米軍による誤爆現場で生き残った幼児のまなざし。ものすごい爆裂音で鼓膜も破れてしまったその子は、精神に変調をきたし、たえず全身を痙攣させながら声を立てて笑っていた。他のショック死した多くの赤ん坊や老人にくらべれば、その子はラッキーだったといえるだろうか。眼が、しかし、笑っていないのだ。血も凍るような光景を瞳に残したまま、これ以上はない恐怖のまなざしで、頬と声だけがへらへらと笑っているのである。ジョージ・W・ブッシュ氏のいう「文明対野蛮」の戦争の、まぎれもない実相がここにある。全体、だれが野蛮なのか。
カブールが「解放」され、女性たちがブルカを脱ぎはじめているというテレビ報道があった。しかし、この遠近法には狂いがある。ほとんどの女性はブルカを脱いではいない。やはりもっと近づいて見たほうがいいのだ。あるとき、私は煮しめたような色のブルカを着た物ごいの女性に近づいてみた。凍てついた路上に痩せこけた半裸の赤ん坊を転がして、同情を買おうとしていた。顔面中央を覆うメッシュごしに、彼女の眼光がきらめいた。案外に若い女性であった。これほどつよい眼の光を私は見たことがない。その光は、哀願だけでない、譴責、糾弾、絶望の色をこもごも帯びて、私をぶすりと刺した。ブルカは脱ぐも脱がないもない、しばしば、生きんがための屈辱を隠してもいるのだと知った。
この身で風景に分け入り、ありとある感官を総動員して紡ぐ言葉と、書斎で想像をたくましくしてつづる文言の「誤差」が、どうにも気になってしかたがなかった。だから、私はカブールに行ってみた。果たして、誤差はどうだったのか。ほんの短期間の取材だったけれども、米軍によるアフガニスタン報復攻撃につよく反対する私の考え方には、毫も変化がなかった。この点、修正の要はない。いや、アフガン取材後、非道な報復攻撃への憤りは、かえっていやましにつのった、といっておこう。ただ、もともとの想定をあらためざるをえない点、そして、風景の細部なのだけれど私にとっては大きな発見が、いくつかあった。
ターコイズブルーの絵の具を塗り、上薬をかけ、さらに布で丁寧に磨きたてたようなカブールの空に、私はいつも見ほれていた。市内のアスマイ山頂から見はるかす街並みも、賢者たちの設計による中世の都市の遺跡に似て、なにやら夢見心地になるほど美しい。そう、この街を見るときに、ふさぎこまないですむやり方を私は考えだそうとした。いわば、悲しみを避けるための遠近法だ。それは、空を見上げているか、もしくは、なるべく遠目に像を見ること。
武力制圧者の「正義」
だが、そんな遠近法は、実際には、荒ぶる風景にたちまちにして壊されてしまう。国連機でカブールのバグラム空港に降り立ったそのときから、怒り、悲嘆、疑問が、胸底でたぎりはじめるのだ。空港で私の荷物チェックをしたのは、アフガンの係官ではなく、米海兵隊員とその軍用犬であった。いかなる手続きをへて米国がそうした権限を得るにいたったか問うても、まともな答えは返ってこないであろう。武力で制圧した者が、ここでは「正義」なのである。
遠目にしていようという心の声を振りきって、私の眼はたくさんの人の眼に吸い寄せられていった。たとえば、米軍による誤爆現場で生き残った幼児のまなざし。ものすごい爆裂音で鼓膜も破れてしまったその子は、精神に変調をきたし、たえず全身を痙攣させながら声を立てて笑っていた。他のショック死した多くの赤ん坊や老人にくらべれば、その子はラッキーだったといえるだろうか。眼が、しかし、笑っていないのだ。血も凍るような光景を瞳に残したまま、これ以上はない恐怖のまなざしで、頬と声だけがへらへらと笑っているのである。ジョージ・W・ブッシュ氏のいう「文明対野蛮」の戦争の、まぎれもない実相がここにある。全体、だれが野蛮なのか。
カブールが「解放」され、女性たちがブルカを脱ぎはじめているというテレビ報道があった。しかし、この遠近法には狂いがある。ほとんどの女性はブルカを脱いではいない。やはりもっと近づいて見たほうがいいのだ。あるとき、私は煮しめたような色のブルカを着た物ごいの女性に近づいてみた。凍てついた路上に痩せこけた半裸の赤ん坊を転がして、同情を買おうとしていた。顔面中央を覆うメッシュごしに、彼女の眼光がきらめいた。案外に若い女性であった。これほどつよい眼の光を私は見たことがない。その光は、哀願だけでない、譴責、糾弾、絶望の色をこもごも帯びて、私をぶすりと刺した。ブルカは脱ぐも脱がないもない、しばしば、生きんがための屈辱を隠してもいるのだと知った。
これは メッセージ 1 (messages_admin さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/bpjfa4lla5fa5m_1/129811.html