Re:平和の戦略>性悪説
投稿者: heichan3000 投稿日時: 2002/01/06 22:27 投稿番号: [129310 / 177456]
>「怒りや憎しみ」も確かに血の通った人間の感情だと思いますが、
>「平和」を望むのも人間なら、あたりまえ
のことだと思います。
>感情を殺すのではなく、乗り越えないといけないのでは?
まさにその通りだと思います。
平和を望みながら時としてどうしようもなく憎しみに駆られるのが人間です。何も国際問題の世界に限った話ではありません。
「平和を愛する人」と「争いを好む人」がいるのではなくて、どちらも同じ人間の2つの顔なのだと思います。そこに感情論で平和を語ってしまうことの危険性と難しさがあると常々思っていました。
例えばあなたは「戦争を起こす人」を愛せるでしょうか。憎しみや自分の利益のために戦争をしたがる人間を、「平和を望む人」や「戦争の犠牲者」に対するのと全く同じように心から許し、認め、愛せるでしょうか?
やはり難しいのではないでしょうか。
ましてや自分や肉親や民族の安全や権利をかけて争う当事者一人一人に、そういった寛容を望むのは無理があると思います。
つまり人間一人一人の「友愛の心」とはその程度のものだと思うのです。
イヤな言い方かもしれませんが、戦争という残酷な「現実」の前に私たちはもっと謙虚であっていいように思うのです。
ただ決して誤解しないで欲しいのは、私は「だから人間社会は平和にできない」と言っているのではありません。それだけ複雑で難しい課題だという事です。これを乗り越えるには集団の知恵の助けが、おそらく要ります。
具体的にはどうかと言えば、やはりそれは知恵と技術を尽くして、争いを避け、管理し、仲裁し、なにより戦争を無益なものにする仕組みを世の中に作っていくという事に尽きると思います。おそらくそれは歴史上主権国家が国内に秩序を打ち立てたのと似たようなプロセスではないかと思っています。
当然ここには平和を望む人が時として卑しむ「抑止」や「制裁」という考えも「選択肢」としては入ってくると思いますし、それは敗北でも何でもないはずです。大切な事は少しでも人間社会を平和にすることですから。感情的には受け入れがたくても、それこそやはり「乗り越える」べきだと思います。
人間の「平和を望む心」は、そういったプロセスを少しでも進めるための間接的ですが貴重な「原動力」だと思っています。「平和を望む心」それ自体は問題の解決につながる場合もありますが、ならない例もあります。
しかし市民みなが平和を望めばこその平和政策ですし、何より平和を望めばこそ、chottomato2さんや私のような人間が1円にもならない議論をしている訳でしょう(笑)。
問題は、安易に平和を「信仰」してしまうことだと思うのです。そして何よりも「戦争」に対して肯定的な人々に対して排他的・独善的になってしまうことです。
私は今の日本の平和主義がこの辺のバランスを欠いているように思えて危惧しているわけです。それだけです。
>(性悪説のような)敗北主義に陥らず、
>本当の「平和」を求めましょうよ。
私は決して安易な性悪説やニヒリズムに走る積もりはありません。人間一人一人は時として「善」だったり「悪」だったりしますが、人類トータルで見ればやはり「善」だと思います。
そして人類トータルで見て平和を望む心の方が強ければ、そして大勢の人間がそれぞれの立場で知恵を出しあえば、個人の力量を超えてどんな問題も解決の目はあると思います。戦争の克服も含めてです。
「ケネディの理想」はつまりそういうことではないでしょうか。
いずれにせよ「総体としての人間の可能性」という点に関しては、私は全く謙虚になる気はありません。
まずは何らかの意味で平和を望む私たちが努力するべきだと思います。なによりも実際に戦争を起こす人々や賛成する人の立場や気持ちを理解し、また理解し合う努力です。それは初めから「戦争反対」と決まっている人だけでどんな大きな声を上げるよりも、大きな意味があると思っています。
>「平和」を望むのも人間なら、あたりまえ
のことだと思います。
>感情を殺すのではなく、乗り越えないといけないのでは?
まさにその通りだと思います。
平和を望みながら時としてどうしようもなく憎しみに駆られるのが人間です。何も国際問題の世界に限った話ではありません。
「平和を愛する人」と「争いを好む人」がいるのではなくて、どちらも同じ人間の2つの顔なのだと思います。そこに感情論で平和を語ってしまうことの危険性と難しさがあると常々思っていました。
例えばあなたは「戦争を起こす人」を愛せるでしょうか。憎しみや自分の利益のために戦争をしたがる人間を、「平和を望む人」や「戦争の犠牲者」に対するのと全く同じように心から許し、認め、愛せるでしょうか?
やはり難しいのではないでしょうか。
ましてや自分や肉親や民族の安全や権利をかけて争う当事者一人一人に、そういった寛容を望むのは無理があると思います。
つまり人間一人一人の「友愛の心」とはその程度のものだと思うのです。
イヤな言い方かもしれませんが、戦争という残酷な「現実」の前に私たちはもっと謙虚であっていいように思うのです。
ただ決して誤解しないで欲しいのは、私は「だから人間社会は平和にできない」と言っているのではありません。それだけ複雑で難しい課題だという事です。これを乗り越えるには集団の知恵の助けが、おそらく要ります。
具体的にはどうかと言えば、やはりそれは知恵と技術を尽くして、争いを避け、管理し、仲裁し、なにより戦争を無益なものにする仕組みを世の中に作っていくという事に尽きると思います。おそらくそれは歴史上主権国家が国内に秩序を打ち立てたのと似たようなプロセスではないかと思っています。
当然ここには平和を望む人が時として卑しむ「抑止」や「制裁」という考えも「選択肢」としては入ってくると思いますし、それは敗北でも何でもないはずです。大切な事は少しでも人間社会を平和にすることですから。感情的には受け入れがたくても、それこそやはり「乗り越える」べきだと思います。
人間の「平和を望む心」は、そういったプロセスを少しでも進めるための間接的ですが貴重な「原動力」だと思っています。「平和を望む心」それ自体は問題の解決につながる場合もありますが、ならない例もあります。
しかし市民みなが平和を望めばこその平和政策ですし、何より平和を望めばこそ、chottomato2さんや私のような人間が1円にもならない議論をしている訳でしょう(笑)。
問題は、安易に平和を「信仰」してしまうことだと思うのです。そして何よりも「戦争」に対して肯定的な人々に対して排他的・独善的になってしまうことです。
私は今の日本の平和主義がこの辺のバランスを欠いているように思えて危惧しているわけです。それだけです。
>(性悪説のような)敗北主義に陥らず、
>本当の「平和」を求めましょうよ。
私は決して安易な性悪説やニヒリズムに走る積もりはありません。人間一人一人は時として「善」だったり「悪」だったりしますが、人類トータルで見ればやはり「善」だと思います。
そして人類トータルで見て平和を望む心の方が強ければ、そして大勢の人間がそれぞれの立場で知恵を出しあえば、個人の力量を超えてどんな問題も解決の目はあると思います。戦争の克服も含めてです。
「ケネディの理想」はつまりそういうことではないでしょうか。
いずれにせよ「総体としての人間の可能性」という点に関しては、私は全く謙虚になる気はありません。
まずは何らかの意味で平和を望む私たちが努力するべきだと思います。なによりも実際に戦争を起こす人々や賛成する人の立場や気持ちを理解し、また理解し合う努力です。それは初めから「戦争反対」と決まっている人だけでどんな大きな声を上げるよりも、大きな意味があると思っています。
これは メッセージ 129295 (chottomato2 さん)への返信です.
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