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>日本の前科

投稿者: kfi_525095 投稿日時: 2002/01/05 07:26 投稿番号: [129095 / 177456]
【日本軍の捕虜】長野オリンピックを盛りあげるために、日本各地を走る聖火のリレーが行われ、総勢七千人ものランナーがこれに参加している。走者の一人として選ばれた元ベルリン五輪の陸上選手ルイズ・ザンペリーニさんは、第二次大戦中に日本軍の捕虜となり、直江津の捕虜収容所で七カ月を過ごし、後にキリスト教伝道師になった人で、収容所のあった上越市内を走る。かつて七百人もの連合国の捕虜が、厳しい寒さと飢えと強制労働に苦しめられた地だ。ザンペリーニさんも看守の暴行よって、もはやスパイクをはけないほどに足を痛めた。

http://pws.prserv.net/ozkids/nitigou.htm

南河内) 第二次世界大戦中、東南アジアで日本軍の捕虜になった元英国兵のジミー・ウォーカーさんが書いた自伝的回想録「Of Rice and Men」(米と人間)」を、祇園三丁目の主婦松岡典子さん(45)が翻訳し、「戦争捕虜 291号の回想―タイメン鉄道から南紀イルカへ―」として、このほど三重大学出版会から自費出版した。松岡さんは「日本人は長崎や広島など悲惨な体験をした被害者だが、一方で加害者でもある。ジミーの体験を通して、戦争の悲惨さを一人でも多くの人に知ってほしい」と話している。ウォーカーさんは 1942年にシンガポールで日本軍の捕虜になり、ビルマ(現ミャンマー)とタイにまたがる泰麺鉄道で重労働に従事させられた。1944年6月に三百人の英兵捕虜とともに、三重県南部の入鹿(いるか)村にある銅山に送られたが、ここで終戦までの約一年半の間に、十六人の英兵が栄養失調や事故などで亡くなった。入鹿の人々は生き延びた英兵が帰国した後、亡くなった十六人のために墓を建て今日まで守ってきた。 http://www2.biglobe.ne.jp/~shinsuke/irukaboys-irukaboys3.html

シンガポールを含むマレー半島は日本軍の東南アジア支配の要であったので「帝国の領土」とされ最後まで厳しい軍政がしかれた。シンガポールにはいくつかの戦争に関する博物館があるが、リゾートアイランドのセントーサ島にある戦争博物館が有名だ。ここの後半部が「戦争の時代一九四二 四五」というタイトルで始まる、日本の侵攻から敗戦までの展示である。シンガポールが「昭南島」と改名されたこと、華僑虐殺や五千万ドルの強制献金、憲兵による住民への拷問虐待、捕虜への虐待などの日本軍の圧政がくわしく紹介されている。
同時に一三六部隊とその指導者リン・ボーセンによる抗日抵抗運動にもスペースがさかれている。日本占領時代がまさに暗黒の時代であったことを体験しながら進むと最後に原爆によって焼け野原になった広島の写真がパネルいっぱいに展示され、原爆が日本軍の支配を終わらせたかのような印象を与える構成になっている。日本軍の連合軍に対する降伏調印式の会場周辺に集まった人々の明るい笑顔も印象に残る。

  数年前、日本軍による虐殺からかろうじて生き残ったマレーシアの人々が広島を訪ね原爆資料館にも寄った。そのとき、彼らが異口同音に、原爆で女性や子どもが犠牲になったのはかわいそうだが、日本がアジアを侵略しなかったら原爆を落とされなかったはずだ、原爆がなければ自分たちも含めてもっと多くのアジアの人々が殺されていただろうと語っていた。原爆がアジアを解放したという意識は今だにアジアの中に広く存在している。
  原爆はアジアを解放するためではなく、アメリカが冷戦のもとでアジアでの優位を確保するためのものであり、人類に対する犯罪であることは言うまでもない。しかしアジアの人々がそう思っているのは、日本の侵略があまりにひどかったからだ。これはアメリカとの関係でもそうだ。日本が侵略戦争への真摯な反省をすることが、核兵器廃絶を含めて日本人の平和への願いを世界の願いに広めていくうえで不可欠であることをシンガポールの展示は物語っているのではないだろうか。http://plaza18.mbn.or.jp/~modernH/paper26.htm
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