SECURITARIAN-3 (2)
投稿者: koukotsuNoHito 投稿日時: 2001/10/28 14:43 投稿番号: [107566 / 177456]
旧ユーゴ(1993年)及びルワンダ(1994年)の両国際刑事裁判所は、安全保障理事会によって非人道的行為の継続が「平和に対する脅威」と認定され、国連憲章第7章の強制措置の一手段として設置されました。これに対して、1998年に多数国間条約として採択された国際刑事裁判所規定は、国際法の歴史上初めて、個人の行為を国際犯罪として把握し、ユーゴのような臨時の国際法廷ではなくて、常設的な組織を作ろうとするものです。このように大規模で深刻な人権侵害を、責任者の刑事責任の追及という形で阻止できるとお考えですか。
[大沼] 戦争では当然人間の極限状況が現れます。「セキュリタリアン」の読者の中にも読まれた方がいるとおもいますけれども、大岡昇平の『野火』という小説があります。大岡昇平は第二次大戦に従軍して地獄を見た人で、人肉を食べるところまで追い詰められた日本の軍隊の話が出てきます。戦争というのはそういう極限状況に人間を追い込むわけですから、「戦争法は必ず破られるものだ」ということは、現実問題として認めておかなければならない。ただ、破られ方を最小限に抑える。100人破る兵隊がいるよりは90人、90人よりは80人のほうがいい。殺すよりは、まだ怪我をさせたほうがいいというくらいの現実的に厳しい態度で立ち向かわないと、戦争法の実効性などというものは絵空事、学者の単なる頭の中の議論になってしまう。そういう前提から出発しますと、戦争法、武力紛争法の実効性を担保するためには、様々な担保手段を重層的に用意しておかなければならない。
人間の行動というのは、いろんな形で抑止される可能性があるわけです。たとえばある兵隊は、自分がここで戦争犯罪を犯してしまうと、戦後処罰される、死刑になるかもしれないということで諦めるかもしれない。ある軍司令官は、相手側の報復があると考えて、戦争法違反の作戦命令を諦めるかもしれない。あるものは、自国の厳しい軍法会議で厳しい処罰を受けるから諦めるかもしれない。あるいは、軍に随行している記者に残虐行為をしたことが報道されることが怖いから諦めるかもしれない。軍に随行している牧師さんとかお坊さんの話を聞いて諦める者がいるかもしれない。このように、ありとあらゆる重層的なメカニズムを備えて、極限状況の人間の獣性をコントロールする可能性を少しでも高めなければならない。その一つとして、戦争犯罪に対して普遍的な管轄権を設定して、どの国であっても戦争犯罪、ジェノサイド、レイプ、民間人の殺人などを犯した者は刑事的に訴追して処罰するという体制を作っておく。国際刑事裁判所とはそういう位置づけがなされると。
ですから、条約で普遍的な管轄権を持つ常設の国際刑事裁判所を作るというのは、悪い事ではもちろんない。
しかし、私は他方で、1990年代から国際刑事管轄権による戦争犯罪の抑止という考え方について、国際社会はやや熱狂的になりすぎているのではないかという危惧をもっています。特に人権法学者、人道法学者、人権関係のNGOといった人たち。もちろん非常に善意なんですけれども、そういった人たちには、国際刑事裁判による抑止のメカニズムについての過大評価があるのではないか。もちろん戦争犯罪を犯した者は、第一線の兵士であろうとも、大統領、軍司令官のような最高権力者であろうとも、国際刑事裁判所という形で訴追の対象として処罰するというのは大事なことだとは思います。けれども、軍司令官とか大統領とか閣僚などのレベルの人々に対して果たして国際刑事裁判という個人の刑事責任の追求だけが抑止的な力を持つものかどうかというのはもう少し考えたほうがいい。国家元首であろうとも国際刑事裁判所で裁判にかけるということは、いわば国際共同体が主権国家を論理的には解体して、そういう国家機関の責任を追及するということになるわけですね。しかし、よほど例外的な状況でないとそういうことはできない。大国の大統領、たとえば米国や中国などの大統領とか国家主席とか軍司令官が国際刑事裁判所で裁かれる、ということは非常に考えにくい。どうしても小国の例外的なケースに限られ、ダブル・スタンダードになってしまう。そういう意味で、非常に大きな限界がある。
もう少しレベルを下げて、たとえばメディアの報道をもう少し公的に組織化して、国連などの国際社会の公的な機関で一種の公民権剥奪的な行動をとるとか、各国が入国を禁止するとか、道義的ないし政治的な責任の追及であれば、これはかなり普遍的にできるわけです。ですから指導者の国際刑事責任の追及だけにこだわらず、もっと他のいろんな抑止のメカニズムを重層的に発展させるほうが賢明ではないかと思います。
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[大沼] 戦争では当然人間の極限状況が現れます。「セキュリタリアン」の読者の中にも読まれた方がいるとおもいますけれども、大岡昇平の『野火』という小説があります。大岡昇平は第二次大戦に従軍して地獄を見た人で、人肉を食べるところまで追い詰められた日本の軍隊の話が出てきます。戦争というのはそういう極限状況に人間を追い込むわけですから、「戦争法は必ず破られるものだ」ということは、現実問題として認めておかなければならない。ただ、破られ方を最小限に抑える。100人破る兵隊がいるよりは90人、90人よりは80人のほうがいい。殺すよりは、まだ怪我をさせたほうがいいというくらいの現実的に厳しい態度で立ち向かわないと、戦争法の実効性などというものは絵空事、学者の単なる頭の中の議論になってしまう。そういう前提から出発しますと、戦争法、武力紛争法の実効性を担保するためには、様々な担保手段を重層的に用意しておかなければならない。
人間の行動というのは、いろんな形で抑止される可能性があるわけです。たとえばある兵隊は、自分がここで戦争犯罪を犯してしまうと、戦後処罰される、死刑になるかもしれないということで諦めるかもしれない。ある軍司令官は、相手側の報復があると考えて、戦争法違反の作戦命令を諦めるかもしれない。あるものは、自国の厳しい軍法会議で厳しい処罰を受けるから諦めるかもしれない。あるいは、軍に随行している記者に残虐行為をしたことが報道されることが怖いから諦めるかもしれない。軍に随行している牧師さんとかお坊さんの話を聞いて諦める者がいるかもしれない。このように、ありとあらゆる重層的なメカニズムを備えて、極限状況の人間の獣性をコントロールする可能性を少しでも高めなければならない。その一つとして、戦争犯罪に対して普遍的な管轄権を設定して、どの国であっても戦争犯罪、ジェノサイド、レイプ、民間人の殺人などを犯した者は刑事的に訴追して処罰するという体制を作っておく。国際刑事裁判所とはそういう位置づけがなされると。
ですから、条約で普遍的な管轄権を持つ常設の国際刑事裁判所を作るというのは、悪い事ではもちろんない。
しかし、私は他方で、1990年代から国際刑事管轄権による戦争犯罪の抑止という考え方について、国際社会はやや熱狂的になりすぎているのではないかという危惧をもっています。特に人権法学者、人道法学者、人権関係のNGOといった人たち。もちろん非常に善意なんですけれども、そういった人たちには、国際刑事裁判による抑止のメカニズムについての過大評価があるのではないか。もちろん戦争犯罪を犯した者は、第一線の兵士であろうとも、大統領、軍司令官のような最高権力者であろうとも、国際刑事裁判所という形で訴追の対象として処罰するというのは大事なことだとは思います。けれども、軍司令官とか大統領とか閣僚などのレベルの人々に対して果たして国際刑事裁判という個人の刑事責任の追求だけが抑止的な力を持つものかどうかというのはもう少し考えたほうがいい。国家元首であろうとも国際刑事裁判所で裁判にかけるということは、いわば国際共同体が主権国家を論理的には解体して、そういう国家機関の責任を追及するということになるわけですね。しかし、よほど例外的な状況でないとそういうことはできない。大国の大統領、たとえば米国や中国などの大統領とか国家主席とか軍司令官が国際刑事裁判所で裁かれる、ということは非常に考えにくい。どうしても小国の例外的なケースに限られ、ダブル・スタンダードになってしまう。そういう意味で、非常に大きな限界がある。
もう少しレベルを下げて、たとえばメディアの報道をもう少し公的に組織化して、国連などの国際社会の公的な機関で一種の公民権剥奪的な行動をとるとか、各国が入国を禁止するとか、道義的ないし政治的な責任の追及であれば、これはかなり普遍的にできるわけです。ですから指導者の国際刑事責任の追及だけにこだわらず、もっと他のいろんな抑止のメカニズムを重層的に発展させるほうが賢明ではないかと思います。
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これは メッセージ 107564 (koukotsuNoHito さん)への返信です.
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