「哲学の予感」内山節から(2/2)
投稿者: koukotsuNoHito 投稿日時: 2001/10/21 20:06 投稿番号: [102516 / 177456]
二十世紀の社会は、その底にこのようなものをもっていた。ところが、自分たちの見つけ出した真理を真理として見とめない人々が現れることがある。それは、真理をめぐる争いを生む。そのとき、自分たちの真理が、唯一正しいものだと考える人々は、この真理を相手にみとめさせようとする。そして、相手に認めさせるためには勝たなければならなくなる。こうして、争いはこうていされ、それが正義を守るための闘いと位置づけられながら、たえず勝利しつづけるための戦略を練らせるようになった。
この精神的態度を基礎にして、経済や政治、軍事の分野でも、勝利しつづけることが真理を守り、正義を守る事だと考える、二十世紀的世界が作られていったのではなかったか。
こんな思いをいだきながら、二十世紀後半の哲学は、次第に、世界のどこでも通用する「普遍的真理」はないと考え、思想はすべてローカルなものであると考えるようになってきた。いまでは思想の世界では、「普遍主義」という言葉は、否定的な響きを伴ってしか、使われなくなっている。そして、このような転換が、「人間的なもの」の虚しさを基礎におく、東洋思想への傾斜を深めさせたのである。人間の本質は無であると、今日ではどれほど多くのヨーロッパの哲学者たちが考えていることだろうか。
ところが、ニューヨークとワシントンのテロから一ヶ月あまりの動きは、一昔前の論理の展開でしかなかった。アメリカは自分たちの真理を正義として世界に押しつけ、その手段として、経済、政治、軍事力を動員する。そうすればするほど、テロリズムにしか活路をみいだせなくなる人々が生まれた歴史を顧みることなく。
それは、今日の哲学にとっては、あまりにも悲しい情景である。
#あまりにも明快にバイアスのかかった文章で、意図が伝わりやくて良かった。しかし共感できる部分が多い文章であった。ただ一点、筆者の立場とは異なる決定的な点が一点ある。それは、「人間の本質は無である」という言明である。
これは メッセージ 102515 (koukotsuNoHito さん)への返信です.
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