「哲学の予感」内山節から(1)
投稿者: koukotsuNoHito 投稿日時: 2001/10/21 20:05 投稿番号: [102515 / 177456]
「哲学の予感」20世紀から21世紀へ
内山節 第93回(10月19日信濃毎日新聞朝刊)
ニューヨーク、ワシントンのテロから、一ヶ月余りの時間は、私たちの暮す世界を、一昔前の世界に戻してしまったような気が私にはする。
二十世紀の、とりわけ後半に入ると、哲学の分野では、東洋思想から学ぼうという姿勢が強くなっていった。その理由のひとつに、欧米系の思想がもっていた人間中心主義を克服したい、という意思がひそんでいた。そのことが、「人間的なもの」の虚(むな)しさを説く東洋思想への傾斜を深めていったのである。
欧米系の思想がもっていた人間中心主義とは、理性中心主義と言い換えてもよかった。理性こそが、人間を人間たらしめているものである、とこの思想は考えた。理性は真理をつかむこともできるし、真理にもとづいて社会や世界をつくることもできる、と。
二十世紀後半の哲学は、この発想が、多様に展開していた世界のさまざまな社会をこわし、支配者と被支配者に世界の人々が分かれていく、「帝国主義」の時代をつくったのではないか、と考えたのである。それはつぎのように考えればよい。
人間は誰でも、自分が暮す世界の自然や歴史の影響を受けながら、自分の考え方をつくりだしている。風土やその地域がつくりだしてきた時間の影響を受けている、といってもよい。だから人間の発想も思想も、基本的にローカルなものとしてしか、つくりだしえないのである。とすれば、欧米系の人々が近代社会をつくる過程でみつけだした理性中心主義も、その理性がみつけだした真理も、ヨーロッパ的な、あるいはアメリカ的なローカルなものとしてしか、成立していないはずである。
ところが、誰にとっても、自分が暮している世界は絶対的なものである。だから自分たちの発想や真理が、世界の真理としても通用すると錯覚しやすい。この錯覚が傲慢(ごうまん)を生み、自分たちの考え方を世界中の人々に押し付けるようになる。そのことが、人間的とか理性的とかいう言葉を伴って、実行されていくのである。
これは メッセージ 102384 (koukotsuNoHito さん)への返信です.
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