1994年朝鮮危機と細川護煕という男⑤
投稿者: orangetealipton 投稿日時: 2010/01/25 13:05 投稿番号: [81 / 88]
1994年2月23日
板門店で、南北朝鮮の実務協議(北朝鮮朴英○(サンズイに朱)主席代表、韓国宋英大主席代表)。
「対話には対話で、戦争には戦争で答える万全の準備ができている。ここからソウルはそれほど遠くない。戦争になれば、ソウルは火の海になるだろう」
と発言、
その場面がテレビ放映されると波紋を広げた。
1994年3月
防衛庁制服組統幕による、朝鮮半島危機の対策研究、完成。
この研究資料は、石原信雄官房副長官を中心とする四省庁会議での対策立案の基礎資料となった。
同年4月8日
細川首相、突然の辞意表明。
その理由は、
国会空転・資金運用をめぐる不祥事の責任をとる、
というものであった。
1994年2月21日の日米首脳会談以降辞意表明(1994年4月8日)するまでの間、
細川首相に対して、
石原官房副長官らはこれまでの検討状況を報告。
Xデ―。経済制裁実施の日
Yデ―。経済制裁を有効なものにするための、海上臨検・海上阻止行動など、実力行使の日
Zデ―。朝鮮半島で武力衝突(戦争)の始まる日
羽田内閣の成立するまでの約三週間、
日本は、
司令塔不在の「事務管理内閣」になっていた。
同年4月28日
羽田孜内閣成立。
これは メッセージ 80 (orangetealipton さん)への返信です.
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