「ユダヤ国家のパレスチナ人」グロスマン②
投稿者: imonoyamashotengai 投稿日時: 2005/07/20 22:23 投稿番号: [9398 / 20008]
中には、進歩的、近代的な考え方の女性も生まれている。
「占領当局が宗教的な動きが広がるように手を貸すと、宗教を盾に取って、
男どもがまた女達を抑圧し始めたの。でも男が女を抑圧するのはコーランが
そうしろと命じているからじゃなくて、男達が自分に都合のいい文句を
コーランから選んでくるからなの」
「私達に本当に自分達の一員になってもらいたいと思っている人なんて、
誰もいないわ」
「窓の周囲は、私が訪ねたパレスチナ人の家の窓の周囲が全てそうであったよう
に、ペンキがぼろぼろにはげ落ちている。湾岸戦争の時に化学兵器による攻撃
に備えて窓を密閉するのに使われた粘着テープを取った時の古傷だ」
「アラブ諸政党の集会に参加した三百人の出席者に向かって、
何故この場に女性が一人もいないのか説明して欲しいと迫った」
名誉の殺人で「毎年ざっと40人の女性がイスラエル内で殺されている」
パレスチナの国旗を描いている生徒に見て見ぬふりをする教師。
注意すれば裏切り者と言われ、黙認すれば首にされるから。
「こんな状況のもとで、子供達に物事の価値とか正直さ、
勇気とかいったものを教えられるでしょうか」
バルタア村は1949年、突然、両側に二つに引き裂かれた。
一つの村が別々の歴史を過ごした。
今、両者の間には微妙なズレが横たわっている。
一方は、「48年組」と馬鹿にし、他方は、コンプレックスを抱いているようだ。
1949年、イスラエル内のアラブ人居住者約16万人の内、半分の8万人は
「国内に存在する不在者」となった。
全国的な国勢調査が行われた時、その場に居合わさなかった。
その財産・土地の所有権は不在者財産管理人の手に移管された。
アイン・フード村
イスラエル国家が全く認知していない51あるアラブ人居住地の一つ。
「もう難民の経験はしたんだから、自分自身の汗で築き上げたものを捨てて
もう一度難民になるなんて、とてもできるもんじゃない。そういうもんだ」
イスラエルのアラブ人の幼児死亡率はユダヤ人の二倍。
イスラエルのアラブ人賃金労働者の92%が社会階層の下半分を構成している。
イスラエルのアラブ人の子供の10人中6人は貧困生活者。
ユダヤ人の子供は10人中1人。
イスラエルの「アラブ人は世界で一番静かな少数派。理想的な少数派」
1964年までシリアの共産主義者はイスラエルのアラブ人共産主義者と
同席しようとはしなかった。
「我々アラブ人地区には密告者というけっして小さからぬ問題があるのです」
1991年、和平交渉ではPLOがイスラエルのパレスチナ人を代表するとの宣言に
「PLOは我々を代表するものではない。イスラエルとの交渉で我々を代表する
のは、イスラエルのパレスチナ人、我々自身だ」
ユダヤ人入植者のプールに子供を連れて行った所、子供の話すアラブ語を聞いた
チケット売り場の女性が、入場を断った。反論すると彼女は泣き出した。
その後、電話を掛けて来て、今度は無料で来て下さいと謝った。
しかし、二度と行かなかった。
チケット係の女性はホロコーストの生き残りだった。
1960年代にはガリラヤには15万人のユダヤ人がいた。
10年後には1万3千人。
ガリラヤでは、土地、多数派を構成する集団。
民族統一と自治政府を成り立たせる二大要素がある。
イスラエルではアラビア語は公用語なのに、
重要な道路標識がほとんどアラビア語で書かれていない。
イクリット村、アラブ人キリスト教徒の村。
1948年、15日間だけ村を離れろと言われ、離れたが、二度と再び戻れることは
なかった。
1951年訴訟、高等裁判所は直ちに返還という原告を支持する判決。
住まわされたラマという村もまた、その村人達は別の所へ移らされていた。
二重の悲劇。
選挙には参加しない。参加すれば現状を肯定することになるからだという。
政府の補償案を受け入れたのは、ごく少数だった。
1972年からは、元の村に埋葬することは許された。
「囚人だってわしらよりはましだ。
わしらの監禁状態はいつ終わりになるかわからんのだから」
「占領当局が宗教的な動きが広がるように手を貸すと、宗教を盾に取って、
男どもがまた女達を抑圧し始めたの。でも男が女を抑圧するのはコーランが
そうしろと命じているからじゃなくて、男達が自分に都合のいい文句を
コーランから選んでくるからなの」
「私達に本当に自分達の一員になってもらいたいと思っている人なんて、
誰もいないわ」
「窓の周囲は、私が訪ねたパレスチナ人の家の窓の周囲が全てそうであったよう
に、ペンキがぼろぼろにはげ落ちている。湾岸戦争の時に化学兵器による攻撃
に備えて窓を密閉するのに使われた粘着テープを取った時の古傷だ」
「アラブ諸政党の集会に参加した三百人の出席者に向かって、
何故この場に女性が一人もいないのか説明して欲しいと迫った」
名誉の殺人で「毎年ざっと40人の女性がイスラエル内で殺されている」
パレスチナの国旗を描いている生徒に見て見ぬふりをする教師。
注意すれば裏切り者と言われ、黙認すれば首にされるから。
「こんな状況のもとで、子供達に物事の価値とか正直さ、
勇気とかいったものを教えられるでしょうか」
バルタア村は1949年、突然、両側に二つに引き裂かれた。
一つの村が別々の歴史を過ごした。
今、両者の間には微妙なズレが横たわっている。
一方は、「48年組」と馬鹿にし、他方は、コンプレックスを抱いているようだ。
1949年、イスラエル内のアラブ人居住者約16万人の内、半分の8万人は
「国内に存在する不在者」となった。
全国的な国勢調査が行われた時、その場に居合わさなかった。
その財産・土地の所有権は不在者財産管理人の手に移管された。
アイン・フード村
イスラエル国家が全く認知していない51あるアラブ人居住地の一つ。
「もう難民の経験はしたんだから、自分自身の汗で築き上げたものを捨てて
もう一度難民になるなんて、とてもできるもんじゃない。そういうもんだ」
イスラエルのアラブ人の幼児死亡率はユダヤ人の二倍。
イスラエルのアラブ人賃金労働者の92%が社会階層の下半分を構成している。
イスラエルのアラブ人の子供の10人中6人は貧困生活者。
ユダヤ人の子供は10人中1人。
イスラエルの「アラブ人は世界で一番静かな少数派。理想的な少数派」
1964年までシリアの共産主義者はイスラエルのアラブ人共産主義者と
同席しようとはしなかった。
「我々アラブ人地区には密告者というけっして小さからぬ問題があるのです」
1991年、和平交渉ではPLOがイスラエルのパレスチナ人を代表するとの宣言に
「PLOは我々を代表するものではない。イスラエルとの交渉で我々を代表する
のは、イスラエルのパレスチナ人、我々自身だ」
ユダヤ人入植者のプールに子供を連れて行った所、子供の話すアラブ語を聞いた
チケット売り場の女性が、入場を断った。反論すると彼女は泣き出した。
その後、電話を掛けて来て、今度は無料で来て下さいと謝った。
しかし、二度と行かなかった。
チケット係の女性はホロコーストの生き残りだった。
1960年代にはガリラヤには15万人のユダヤ人がいた。
10年後には1万3千人。
ガリラヤでは、土地、多数派を構成する集団。
民族統一と自治政府を成り立たせる二大要素がある。
イスラエルではアラビア語は公用語なのに、
重要な道路標識がほとんどアラビア語で書かれていない。
イクリット村、アラブ人キリスト教徒の村。
1948年、15日間だけ村を離れろと言われ、離れたが、二度と再び戻れることは
なかった。
1951年訴訟、高等裁判所は直ちに返還という原告を支持する判決。
住まわされたラマという村もまた、その村人達は別の所へ移らされていた。
二重の悲劇。
選挙には参加しない。参加すれば現状を肯定することになるからだという。
政府の補償案を受け入れたのは、ごく少数だった。
1972年からは、元の村に埋葬することは許された。
「囚人だってわしらよりはましだ。
わしらの監禁状態はいつ終わりになるかわからんのだから」
これは メッセージ 9397 (imonoyamashotengai さん)への返信です.
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