パリへ旅立ち
投稿者: abutouma 投稿日時: 2004/10/29 16:39 投稿番号: [8279 / 20008]
adventureさん
ガザ分離案のためにはアラファトに死なれると困るというのは、そのとおりでしょうね。
でも、アラファトさえ居なければイスラエルの思惑通りにパレスチナ側に和平条件をのませることが出来る、という思いもあるでしょう。
シャロンの胸中は複雑でしょうね。
http://www.geocities.jp/beirutreport/index.htmlアンマンからパリへ(10月29日)
アンマンに着いたアラファトは、午前9時20分、パリに向けて飛び立った。
アンマンと言えば、1970年、「黒い9月」事件でアラファトはここでヨルダン軍に包囲され、絶対絶命の状態に追い込まれた。他のPLO幹部(アブ・イヤードやファルーク・カッドゥーミ)がヨルダン軍の捕虜になる中、アラファト本人はしぶとく捜索の網から逃れ続け、アラブ和平交渉団のヌメイリ団長(当時スーダン大統領)は、砲弾の雨の中、自らの命を危険にさらしてアラファトを探し回る破目になった。
ヌメイリに伴われアラファトはカイロへ(変装してヨルダンを抜け出したという説もある)。そこでフセイン国王と嵐のような応酬があった。
死期の迫ったナセル大統領は、紛争収拾のため説得に全身全霊を傾け、何とか両者を和解させた。サミット終了後まもなく、ナセルは不帰の客となる。
ナセルという重しを失い、ヨルダン紛争は再度悪化した。
71年7月。
北部アジュルーンの森林に籠もったアラファトとパレスチナ・ゲリラにを、ヨルダン軍は再度包囲、掃討作戦を進める。
再び生死の淵に立たされたアラファトは、当時ヨルダンの閣僚だったムニーブ・マスリとサウジ大使に伴われ、フセイン国王と交渉するためアジュルーンを脱出する。しかしジャラシュまで来たところで、アラファトの気は変わった。アンマンに戻れば国王に降伏するに等しい、それよりは新天地で、革命をやり直そう…アラファトはそのまま進路を北にとり、ダマスカス、さらにベイルートへと向かった。
そのベイルートで、彼が来てから何が起きたか、周知のとおりである。
アブ・イヤード、ヌメイリ、ナセル、フセイン…みんな鬼籍に入った。
生き延びたアラファトはアンマンからベイルート、さらにチュニス、ガザ、ラーマッラーを転々とし、今朝ラーマッラーを離れ、アンマン経由でパリへ向かった。
これは メッセージ 1 (messages_admin さん)への返信です.
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