イスラエル/パレスチナ和平

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何度も機会をのがしてきたパレスチナ人

投稿者: jordan148392 投稿日時: 2004/01/25 10:01 投稿番号: [7089 / 20008]
1948年に国連がパレスチナを2つに分割すると決めたとき、アラブ諸国はこれを受け入れずにパレスチナに攻め込んだ。このときこれを受け入れていれば、現在の西岸とガザだけでなく、レバノン国境沿いの北部もパレスチナ人のもとに残されたはずである。
その後、西岸はヨルダンと一体となり、ガザはエジプトの管理下に置かれたが、このときならまだパレスチナはいつでも独立できたはずである。しかしアラブ諸国はあくまでイスラエルのせん滅をめざし、西岸とガザだけで独立する雰囲気はなかった。
1968年以後、西岸とガザがイスラエルの占領下に入っても、労働党政権下のイスラエルは西岸をヨルダンに返すつもりでいたので入植地も認めなかった。しかしアラファト議長はあくまでイスラエルのせん滅をめざし、ヨルダンへの返還に反対していた。やがリクードが政権を握り、入植地が建設された。
オスロ合意を受けて西岸とガザの独立の道が開けて、労働党のバラク首相が、入植地の全面撤退や、イスラエル独立時に難民になったパレスチナ人への財産の賠償さえ話題にのぼらせたとき、アラファト議長は、パレスチナ難民がイスラエルに戻って住む権利を主張して譲らず、交渉は決裂、労働党政権は倒れてしまい、より強硬なリクードのシャロン政権になってしまった。
難民の代表であるアラファト議長が、生まれ故郷のハイファに戻って住むという実現のむずかしい夢に、難民以外の西岸やガザのパレスチナ人が道連れにされてきたという面がある。
それだけでなく、さまざまな思想家や革命家たち、たとえばイスラム原理主義やアルカイダなどの人たち(一時は日本の連合赤軍の人たちまでも)がパレスチナ人を支援することで、安易な妥協ができなくなった面もあるようだ。
アラブの大義やイスラムの大義、世界革命の大義の犠牲になってきたといってよい。
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