パレスチナに「対岸」からの声は?
投稿者: r911911911 投稿日時: 2003/08/08 10:03 投稿番号: [6310 / 20008]
「これだけ多くの人を苦しめた思想家が、ほかにいただろうか。私は、中国の民衆が味わってきた恐怖と苦痛の深さを思った。あれは、何のためだったのか。」
「毛沢東の思想は、あるいは人格の延長だったのかもしれない。私の見るところ、毛沢東は生来争いを好む性格で、しかも争いを大きくあおる才能にたけていた。嫉妬や怨恨といった人間の醜悪な本性をじつにたくみに把握し、自分の目的に合わせて利用する術を心得ていた。」
「毛沢東主義のもうひとつの特徴は、無知の礼賛だ。毛沢東は、中国社会の体勢を占める無学文盲の民にとって一握りの知識階級が格好のえじきになることを、ちゃんと計算していた。毛沢東は正規の学校教育を憎み、教育を受けた人間を憎んでいた。また、誇大妄想狂で、中国文明を築きあげた古今の優れた才能を蔑視していた。」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062637723/ref=sr_aps_b_2/249-6501433-2033917
またトピずれで恐縮だが『ワイルド・スワン』(ユン・チアン)というのを読んで、大いに感動しつつ、毛沢東や中国民衆(の体勢)にパレスチナを重ねてしまって、ところどころ、あまりにもぴったりハマるので一部を上記に紹介(ちなみにこの本だと「ヘンな漢字(地名・人名)」はたいてい読み仮名がふってある)。
思想家、とか、毛沢東、という言葉を、アラファト、と置き換えてもいいし、なんとなればモハメッドとしてもいいくらいだ。他にもたくさん〝該当箇所〟があったのだけど、印を付けながら読んだわけでもないのでどこの頁だったかがわからない。
この本は、何というか、ノン・フィクション版の『百年の孤独』といった趣でもあった。文章やプロットのスタイルに文芸的な瑕疵はあるものの、荒々しさを覆い隠してしまう圧倒感がある。名著だと思う。
パレスチナの中からユン・チアンは登場してきてはいない、のだと思うけど、僕の知らない人の名前があるようだったら是非どなたか教えて欲しい。ユン・チアンとの比較で例えばサイードなどは、「民衆が味わう恐怖と苦痛」を恒常化させかねない程度の、イスラムなる思想家にすぎないな、と言い切れてしまう。
最近の週刊現代だかポストだかに「ユダヤ」特集みたいなのがあって、その中でも触れていたけど、「ヘブライ」という言葉には「対岸」というようなニュアンスの意味がある。「対岸」からの「俯瞰」といった概念で「ユダヤ人に優秀な人間の比率が多い」というあたりを考察すると、その「秘密」がわかる、とかなんとかいうような内容のお話しは、あれこれの本でもよく見かける。
ユン・チアンの母国中国に対するスタンスを読むと、まさに「いまここ」を生きながら精神は「対岸」に置くことができた人だったのだな、と思う。パレスチナのみならず、イスラムに必要なのは、そうした知識人たちによる「内からなる言葉」だと思う。
どっぷりとイスラム的饒舌に浸かりきったような古い世代のオヤジたちの「思想」では、けっしてあの民族、あの宗教は「救われない」と思う。日本の朝日新聞的、偽善左翼的、能書きだけの無責任人道主義的なオヤジたちが日本を食い物にして何の付加価値も残さないのと同じだ。
『ワイルド・スワン』を読む限り、中国では、文化大革命の末期には、さすがに民衆たちの中から自然発生的な体制批判、毛沢東批判が沸き起こってきていたようだ。
パレスチナが、アラファトやヤシン/ランティシ否定を自らの自律的な声で、母国語で、叫ぶ時代というのは、いつになったら訪れるのか。そもそも、そのような時代は、決してこないのだろうか――つまりはあまたある滅びの民族のひとつにすぎないからだろうか。
「毛沢東の思想は、あるいは人格の延長だったのかもしれない。私の見るところ、毛沢東は生来争いを好む性格で、しかも争いを大きくあおる才能にたけていた。嫉妬や怨恨といった人間の醜悪な本性をじつにたくみに把握し、自分の目的に合わせて利用する術を心得ていた。」
「毛沢東主義のもうひとつの特徴は、無知の礼賛だ。毛沢東は、中国社会の体勢を占める無学文盲の民にとって一握りの知識階級が格好のえじきになることを、ちゃんと計算していた。毛沢東は正規の学校教育を憎み、教育を受けた人間を憎んでいた。また、誇大妄想狂で、中国文明を築きあげた古今の優れた才能を蔑視していた。」
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またトピずれで恐縮だが『ワイルド・スワン』(ユン・チアン)というのを読んで、大いに感動しつつ、毛沢東や中国民衆(の体勢)にパレスチナを重ねてしまって、ところどころ、あまりにもぴったりハマるので一部を上記に紹介(ちなみにこの本だと「ヘンな漢字(地名・人名)」はたいてい読み仮名がふってある)。
思想家、とか、毛沢東、という言葉を、アラファト、と置き換えてもいいし、なんとなればモハメッドとしてもいいくらいだ。他にもたくさん〝該当箇所〟があったのだけど、印を付けながら読んだわけでもないのでどこの頁だったかがわからない。
この本は、何というか、ノン・フィクション版の『百年の孤独』といった趣でもあった。文章やプロットのスタイルに文芸的な瑕疵はあるものの、荒々しさを覆い隠してしまう圧倒感がある。名著だと思う。
パレスチナの中からユン・チアンは登場してきてはいない、のだと思うけど、僕の知らない人の名前があるようだったら是非どなたか教えて欲しい。ユン・チアンとの比較で例えばサイードなどは、「民衆が味わう恐怖と苦痛」を恒常化させかねない程度の、イスラムなる思想家にすぎないな、と言い切れてしまう。
最近の週刊現代だかポストだかに「ユダヤ」特集みたいなのがあって、その中でも触れていたけど、「ヘブライ」という言葉には「対岸」というようなニュアンスの意味がある。「対岸」からの「俯瞰」といった概念で「ユダヤ人に優秀な人間の比率が多い」というあたりを考察すると、その「秘密」がわかる、とかなんとかいうような内容のお話しは、あれこれの本でもよく見かける。
ユン・チアンの母国中国に対するスタンスを読むと、まさに「いまここ」を生きながら精神は「対岸」に置くことができた人だったのだな、と思う。パレスチナのみならず、イスラムに必要なのは、そうした知識人たちによる「内からなる言葉」だと思う。
どっぷりとイスラム的饒舌に浸かりきったような古い世代のオヤジたちの「思想」では、けっしてあの民族、あの宗教は「救われない」と思う。日本の朝日新聞的、偽善左翼的、能書きだけの無責任人道主義的なオヤジたちが日本を食い物にして何の付加価値も残さないのと同じだ。
『ワイルド・スワン』を読む限り、中国では、文化大革命の末期には、さすがに民衆たちの中から自然発生的な体制批判、毛沢東批判が沸き起こってきていたようだ。
パレスチナが、アラファトやヤシン/ランティシ否定を自らの自律的な声で、母国語で、叫ぶ時代というのは、いつになったら訪れるのか。そもそも、そのような時代は、決してこないのだろうか――つまりはあまたある滅びの民族のひとつにすぎないからだろうか。
これは メッセージ 6309 (r911911911 さん)への返信です.
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