命と人権
投稿者: r911911911 投稿日時: 2003/06/26 00:14 投稿番号: [5894 / 20008]
なるほど「夢」か……。
そうなると、次の指摘が可能かと思います。「融合国家構想」という概念を掲げるのは、一方で「世界国家モデル」を理想の果てに置くことと矛盾します。
国連加盟国というのがあって(そこは利権争奪多数決トンデモ二枚舌の不正義な場所)、中東にだけ「融合国家」があれば、イスラエル/ユダヤ人の生命的安全保障が成立しないことは明か。
夢ということでは、僕も「世界国家モデル」という理想自体は、それこそまさに「人類の夢」だと思います。〝そもそも〟、「国家」なんてものはホントは要らない――すべての人種・民族が命を脅かされるなどという状況がなければ、です。
だから、「融合国家構想」といういわば〝暫定的〟なステップを踏もうというのは、矛盾でもあり「人類の夢」にもある意味で反することだ。
イスラム社会では二十一世紀になって「独立」したアラブ諸国がうじゃうじゃある。今の日本も本質では似たようなもの。また、韓国、現代中国……地球のほとんどは、実は若い。民主主義自体でさえが若いということ。
団塊の世代を例にとれば、「人権」は、彼らのパパの時代には、今の形などでは存在していなかった。というか、「草の根の大衆の分際」で語るようなものではなかった。「平等な人権」はあるとき突然やってきた。それを「既得の権利」と取り違えたところから「民主主義」ははじまった。
みっとも恥ずかしい「人権闘争」は至る所にあり、過去にはありまくった。何が言いたいかというと、「プライオリティ」である「命の問題」、それが「絶対的優先事項」(!!)であるということが、忘れ去れている。……というか、突然しゃべる権利をもらった大衆には、そもそもそんなアタマなどなかった。それが、日本の実態であり、世界の「市民」もまあ、似たようなもんだ。
つまり、二十一世紀になってもまだ「人権」というのが「命」より大事なんじゃないかという勘違いアタマの「大衆の分際」がごろごろいる。あえて「大衆の分際」というのは、自分たちで勝ち取った権利などではないからです。パパも悩んだ、ボクも悩んだ、さて子供にどう伝えるか、ご先祖様はどう生きたか、といった「伝統」がある話しじゃない。
そんな出来たてホヤヨヤのフラフラ民主主義がベースになって「国家」という枠組みで動けば、当然「国益」闘争ということになる。植民地主義や帝国主義の時代の武器が「言論」に変わっただけで、今の国連をみれば「誰も彼もがならず者」だということは一目瞭然。
だからこそ「命の問題」に関わる安全保障の「権利」が、その他二義的な「人権」と同じように並列的に扱われてしまって、中東紛争の例では、アムネスティのような不公正な「正義」が平気で語られたりする。同じような視点で国連ではイスラエル批判が決議されたりする。
もしも「人類の理想」としての「世界国家モデル」が確立され実現されていくなら、まずなによりも「誰の命も脅かされないこと」が、最初の「十戒」にならなければいけない。そのように、「世界国家モデル」を支える基本的なルールは、「禁止」なのだと思う。だから僕は「殺すな、盗むな、嘘をつくな」という十戒にある言葉が重要だと、何度も繰り返しているつもりです。
理想を語るなら、中東における「融合国家」という暫定形など飛ばしてしまっていいでしょう。はじめから「世界国家モデル」を目指すべきだ。そのほうが、現実の中東問題に対処すべき基本姿勢とも共通する部分のほうが多い。
もしも人の「夢」がなんらかの血肉あるビジョンなのであれば「人類の夢」としての「世界国家モデル」も、実はおそらく、「夢」ではなく「実現し得る将来像」なのではないでしょうか。
命に関わる問題には、絶対的なプライオリティで「禁止」がなければいけない。それはまさに「テロ否定」のことでもある。その他の「人権」に関わる各論と同列にしてはいけない。各論としての人権は、〝理想としては〟国家さえ超越した普遍的世界観において判断されるのが望ましい。
中東紛争がなおも終わらずに継続しつつ、やがて、人類共通のルールがあるべきプライオリティの順序において確立されるなら、「ユダヤ国家」としてのイスラエルの存在も無意味なものとなる。それは、ユダヤ人が「使命」として与えられているところの「神の正義」の実現でもあると思います。
それは、融合国家も世界国家も超えて、地球人類の生命が等しく尊重される新しい時代なのだろうと思います。
そうなると、次の指摘が可能かと思います。「融合国家構想」という概念を掲げるのは、一方で「世界国家モデル」を理想の果てに置くことと矛盾します。
国連加盟国というのがあって(そこは利権争奪多数決トンデモ二枚舌の不正義な場所)、中東にだけ「融合国家」があれば、イスラエル/ユダヤ人の生命的安全保障が成立しないことは明か。
夢ということでは、僕も「世界国家モデル」という理想自体は、それこそまさに「人類の夢」だと思います。〝そもそも〟、「国家」なんてものはホントは要らない――すべての人種・民族が命を脅かされるなどという状況がなければ、です。
だから、「融合国家構想」といういわば〝暫定的〟なステップを踏もうというのは、矛盾でもあり「人類の夢」にもある意味で反することだ。
イスラム社会では二十一世紀になって「独立」したアラブ諸国がうじゃうじゃある。今の日本も本質では似たようなもの。また、韓国、現代中国……地球のほとんどは、実は若い。民主主義自体でさえが若いということ。
団塊の世代を例にとれば、「人権」は、彼らのパパの時代には、今の形などでは存在していなかった。というか、「草の根の大衆の分際」で語るようなものではなかった。「平等な人権」はあるとき突然やってきた。それを「既得の権利」と取り違えたところから「民主主義」ははじまった。
みっとも恥ずかしい「人権闘争」は至る所にあり、過去にはありまくった。何が言いたいかというと、「プライオリティ」である「命の問題」、それが「絶対的優先事項」(!!)であるということが、忘れ去れている。……というか、突然しゃべる権利をもらった大衆には、そもそもそんなアタマなどなかった。それが、日本の実態であり、世界の「市民」もまあ、似たようなもんだ。
つまり、二十一世紀になってもまだ「人権」というのが「命」より大事なんじゃないかという勘違いアタマの「大衆の分際」がごろごろいる。あえて「大衆の分際」というのは、自分たちで勝ち取った権利などではないからです。パパも悩んだ、ボクも悩んだ、さて子供にどう伝えるか、ご先祖様はどう生きたか、といった「伝統」がある話しじゃない。
そんな出来たてホヤヨヤのフラフラ民主主義がベースになって「国家」という枠組みで動けば、当然「国益」闘争ということになる。植民地主義や帝国主義の時代の武器が「言論」に変わっただけで、今の国連をみれば「誰も彼もがならず者」だということは一目瞭然。
だからこそ「命の問題」に関わる安全保障の「権利」が、その他二義的な「人権」と同じように並列的に扱われてしまって、中東紛争の例では、アムネスティのような不公正な「正義」が平気で語られたりする。同じような視点で国連ではイスラエル批判が決議されたりする。
もしも「人類の理想」としての「世界国家モデル」が確立され実現されていくなら、まずなによりも「誰の命も脅かされないこと」が、最初の「十戒」にならなければいけない。そのように、「世界国家モデル」を支える基本的なルールは、「禁止」なのだと思う。だから僕は「殺すな、盗むな、嘘をつくな」という十戒にある言葉が重要だと、何度も繰り返しているつもりです。
理想を語るなら、中東における「融合国家」という暫定形など飛ばしてしまっていいでしょう。はじめから「世界国家モデル」を目指すべきだ。そのほうが、現実の中東問題に対処すべき基本姿勢とも共通する部分のほうが多い。
もしも人の「夢」がなんらかの血肉あるビジョンなのであれば「人類の夢」としての「世界国家モデル」も、実はおそらく、「夢」ではなく「実現し得る将来像」なのではないでしょうか。
命に関わる問題には、絶対的なプライオリティで「禁止」がなければいけない。それはまさに「テロ否定」のことでもある。その他の「人権」に関わる各論と同列にしてはいけない。各論としての人権は、〝理想としては〟国家さえ超越した普遍的世界観において判断されるのが望ましい。
中東紛争がなおも終わらずに継続しつつ、やがて、人類共通のルールがあるべきプライオリティの順序において確立されるなら、「ユダヤ国家」としてのイスラエルの存在も無意味なものとなる。それは、ユダヤ人が「使命」として与えられているところの「神の正義」の実現でもあると思います。
それは、融合国家も世界国家も超えて、地球人類の生命が等しく尊重される新しい時代なのだろうと思います。
これは メッセージ 5891 (tmiya1960 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1143582/a5a4a59a5ia5a8a5ka1bfa5qa5la59a5aa5jobjbf_1/5894.html