イスラエル年表(改)2
投稿者: r911911911 投稿日時: 2003/05/15 14:29 投稿番号: [5250 / 20008]
1993年8月、オスロ合意「暫定(5年)自治に関する原則宣言」
○オスロ合意までのテロ事件は73件(死亡者21人、負傷者185人)(*)
1994年9月、湾岸評議会アラブ(対イスラエル)ボイコット停止
1994年10月、ヨルダン、イスラエルとの平和条約調印
○1993年9月のオスロ合意から1995年4月にPLOがハマスとの対立姿勢を対外的にほのめかすようになるまでの2年半におけるハマスの活動は非常に活発。パレスチナの対イスラエル攻撃は172回、そのうちの152回はハマスによるものと見られる。この間に死亡したイスラエル人の数は78人、負傷者は230人。この時期に自殺テロが登場。(*)
1995年9月28日、パレスチナ自治拡大協定(タバ合意)
1995年11月、ラビン首相暗殺(犯人は大イスラエル主義のユダヤ青年)。映画プロミスの取材はこの年に開始。
○パレスチナ人による一連の対イスラエルテロが、より保守的な(イスラエル)政府成立を促す結果となる。和平プロセスは3年間にわたりペースを落とした。(イ)
1996年1月、パレスチナ選挙、アラファト議長らPLO幹部ガザへ拠点移す
○1996年2月ハマスは5回の自殺テロ事件を起こし、イスラエル側に死者59人、負傷者200人を出した。自治政府はアメリカ、イスラエルの圧力を受けて3月にハマスの大量逮捕。パレスチナ側によると600人、ニューヨークタイムズ紙は400人、AP通信は400人と見ている。(*)
1996年5月、首相公選でリクード党首ネタニヤフ選出。
○選挙直前に大テロ事件がハマスによって起こされ右派リクードのネタニヤフ政権を招いたと考えられる。(*)
1998年1月17日、ヘブロンからのイスラエル軍撤退合意(ヘブロン合意)
1998年10月23日、イスラエル軍追加撤退合意(ワイ・リバー合意)
2000年5月24日、イスラエル、レバノン撤退終了
2000年7月11日、キャンプ・デービッドで3首脳による和平交渉(25日決裂)
2000年9月、「アル・アクサ・インティファーダ」
2001年2月6日、アリエル・シャロン首相選出
2001年9月11日、世界貿易センタービルおよびペンタゴンへの同時多発テロ
2003年、イラク攻撃、サウジアラビア外人居住区・チェチェン・イエメンなどイスラム教徒による連続テロ、……
○この年アッバス新首相就任(直後に外国人自称平和運動家イスラム教徒によるテロ)、「ロード・マップ」。……
(イ)はイスラエル大使館HP文の引用(「本当の敵」バリー・ルービン、エルサレム・ポスト紙)
http://www.israelembassy-tokyo.com/mag/political/001025_01.html
○なぜ西暦2000年の現在に至ってもパレスチナ人国家はなく、地域開発は停滞し、パレスチナ人の死傷者は増え続けるのか? 真実は確然としている―パレスチナ人側の戦略と戦術が自己破壊に終わっているからである。
○彼らは他人に期待している―アラブ諸国、ヨーロッパ諸国、世論などが自分達を救ってくれると思っているのだ。だが、そんな希望は失望に終わる。
○妥協に基づく国家実現よりも、闘争を続けて遠い将来に望むもの全てを手に入れたいと彼らは考える。
○要するに、現在起きていることはこれまで幾度も起きてきたことなのである。パレスチナ人がこれまで何かを得たのは、イスラエルと交渉して合意に達した場合のみであった。
○世界中の多くの人々がこういった状況を理解できなくとも驚くにはあたらない。ある人々がそんなに多くの誤りを犯し、何度も自らを苛んで苦しむとは、想像すら難しいではないか。
○残された選択肢は次の二つしかない。即ち、和平を交渉し、国家を得て、そこに難民の再定住を図り、社会を築いてゆくのが一つ。或いは、闘争を続け、自分達の社会を頓挫させ、死傷者に苦しみ、自らの非妥協的態度に誇りを持つか。これこそが、今日のパレスチナ人=イスラエル関係の中心にある問題であり、ある意味唯一の問題なのである。
(*)は「ハマスに見る原理主義運動の活動様態とその範囲」(笈川博一)からの略引用
http://www.kyorin-u.ac.jp/oikawa/hamas.htm
○オスロ合意までのテロ事件は73件(死亡者21人、負傷者185人)(*)
1994年9月、湾岸評議会アラブ(対イスラエル)ボイコット停止
1994年10月、ヨルダン、イスラエルとの平和条約調印
○1993年9月のオスロ合意から1995年4月にPLOがハマスとの対立姿勢を対外的にほのめかすようになるまでの2年半におけるハマスの活動は非常に活発。パレスチナの対イスラエル攻撃は172回、そのうちの152回はハマスによるものと見られる。この間に死亡したイスラエル人の数は78人、負傷者は230人。この時期に自殺テロが登場。(*)
1995年9月28日、パレスチナ自治拡大協定(タバ合意)
1995年11月、ラビン首相暗殺(犯人は大イスラエル主義のユダヤ青年)。映画プロミスの取材はこの年に開始。
○パレスチナ人による一連の対イスラエルテロが、より保守的な(イスラエル)政府成立を促す結果となる。和平プロセスは3年間にわたりペースを落とした。(イ)
1996年1月、パレスチナ選挙、アラファト議長らPLO幹部ガザへ拠点移す
○1996年2月ハマスは5回の自殺テロ事件を起こし、イスラエル側に死者59人、負傷者200人を出した。自治政府はアメリカ、イスラエルの圧力を受けて3月にハマスの大量逮捕。パレスチナ側によると600人、ニューヨークタイムズ紙は400人、AP通信は400人と見ている。(*)
1996年5月、首相公選でリクード党首ネタニヤフ選出。
○選挙直前に大テロ事件がハマスによって起こされ右派リクードのネタニヤフ政権を招いたと考えられる。(*)
1998年1月17日、ヘブロンからのイスラエル軍撤退合意(ヘブロン合意)
1998年10月23日、イスラエル軍追加撤退合意(ワイ・リバー合意)
2000年5月24日、イスラエル、レバノン撤退終了
2000年7月11日、キャンプ・デービッドで3首脳による和平交渉(25日決裂)
2000年9月、「アル・アクサ・インティファーダ」
2001年2月6日、アリエル・シャロン首相選出
2001年9月11日、世界貿易センタービルおよびペンタゴンへの同時多発テロ
2003年、イラク攻撃、サウジアラビア外人居住区・チェチェン・イエメンなどイスラム教徒による連続テロ、……
○この年アッバス新首相就任(直後に外国人自称平和運動家イスラム教徒によるテロ)、「ロード・マップ」。……
(イ)はイスラエル大使館HP文の引用(「本当の敵」バリー・ルービン、エルサレム・ポスト紙)
http://www.israelembassy-tokyo.com/mag/political/001025_01.html
○なぜ西暦2000年の現在に至ってもパレスチナ人国家はなく、地域開発は停滞し、パレスチナ人の死傷者は増え続けるのか? 真実は確然としている―パレスチナ人側の戦略と戦術が自己破壊に終わっているからである。
○彼らは他人に期待している―アラブ諸国、ヨーロッパ諸国、世論などが自分達を救ってくれると思っているのだ。だが、そんな希望は失望に終わる。
○妥協に基づく国家実現よりも、闘争を続けて遠い将来に望むもの全てを手に入れたいと彼らは考える。
○要するに、現在起きていることはこれまで幾度も起きてきたことなのである。パレスチナ人がこれまで何かを得たのは、イスラエルと交渉して合意に達した場合のみであった。
○世界中の多くの人々がこういった状況を理解できなくとも驚くにはあたらない。ある人々がそんなに多くの誤りを犯し、何度も自らを苛んで苦しむとは、想像すら難しいではないか。
○残された選択肢は次の二つしかない。即ち、和平を交渉し、国家を得て、そこに難民の再定住を図り、社会を築いてゆくのが一つ。或いは、闘争を続け、自分達の社会を頓挫させ、死傷者に苦しみ、自らの非妥協的態度に誇りを持つか。これこそが、今日のパレスチナ人=イスラエル関係の中心にある問題であり、ある意味唯一の問題なのである。
(*)は「ハマスに見る原理主義運動の活動様態とその範囲」(笈川博一)からの略引用
http://www.kyorin-u.ac.jp/oikawa/hamas.htm
これは メッセージ 5249 (r911911911 さん)への返信です.
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