死には死を
投稿者: native_born_lonely 投稿日時: 2003/05/07 00:07 投稿番号: [5126 / 20008]
http://www.amnesty.or.jp/campaign/adp_top.html
>Q. アムネスティは、なぜ死刑廃止を求めているのですか?
>アムネスティが死刑制度に反対する根本的な理由は、死刑が残虐な刑罰であり、生きる権利を否定するものだからです。このアムネスティの立場は、1977年に採択した「ストックホルム宣言」に明確に述べられています。生きる権利は誰もが生まれながらに持っている、基本的な権利の一つです。それはたとえどんな罪を犯した人であれ、否定されてはならないと私たちは考えています。アムネスティはこの立場に立って、すべての死刑に例外なく反対しています。
私はこれは、弱いと思う。弱いという意味は、実のところ命の尊さというものを踏まえた思想とは思えない、ということである。
上記の説明で述べられている、命に対するアムネスティの姿勢は「無神論」的だ。命というものを「人間の権利」としてみなしている。
死刑が「残虐な刑罰」かどうかを、人間が決めてよいものか、という神学的な問題がそっくり抜け落ちている。
ちなみに「残虐な」という言葉は形容詞だが、得てして形容詞なしに成り立たない論旨というものは、未熟な精神であるとしか思えない。
少なくとも、「家族に対する責任」を負う大人が、自分たちの生殺与奪を預けられるような思想ではない。
これに対して、モーセの律法における命の概念は、概ね以下のように現わされるだろう。
「古代オリエントのほとんどの法典は、財産権を中心に構成されている。(中略)また他の法典が死刑囚に恩赦を与える権利を王に与えているのに対し、聖書はそのような権利を想定していない。実際殺人罪では、いかなる金持ちも法の前に無力である。(中略)それは死刑によって道徳的な罪を罰しようとするとどうしても生じる、一つの逆説をも示す。モーセの神学によれば、人は神のかたちに似せて造られている。したがって人の命はただ単に価値があるだけではなく、神聖なものである。人の命を絶つのは神に対する冒涜であり、あまりにも重大な罪であるがゆえに、究極的な処罰、すなわち生命を奪うのが適当とされるのである。金銭による償いだけでは十分ではない。処刑という恐ろしい行為が、逆に人の命の重大さを強調する」
−出典:「ユダヤ人の歴史」ポール・ジョンソン、石田友雄監修(上巻、60〜61ページ)徳間書店
このような説明に従えば、アムネスティの考えは、「命の重大さ」を軽んじている、と見なさなければならない。
アムネスティがイスラエルによる対テロ報復活動について否定的・非難的な姿勢を示している根本的な背景がよくわかった。殺人者への死刑による刑罰が「残虐だ」という同じ視線で、人殺したちへの報復活動を見ているのだ。
テロに対する批判と、テロ報復活動に対する批判が同等に主張されているのも、そうした根本的な考え方によるものなのだ。
世論やマスコミと、国連やアムネスティ、および国家群によって構成される国際社会のうち、多くの場合、死刑をはっきりと肯定できるのは「法治国家」だけかもしれない。その他は、マジョリティ意見ということでは、おそらく常にフラフラと定まりがないのだ。
最近の投稿で「涙腺ウルウル情緒型判官贔屓性思考停止脳髄」といった表現で行き詰まっていたのは、そういうことだったかと思い当たった次第である。
テロへの怒りと、命を奪ったことへの取り返しのつかない事実と痛み、そのことへの理解不足といったことから掲示板への投稿をはじめたのだが、おおよそ自分にとっての答えを頂くことが出たように思う。
>Q. アムネスティは、なぜ死刑廃止を求めているのですか?
>アムネスティが死刑制度に反対する根本的な理由は、死刑が残虐な刑罰であり、生きる権利を否定するものだからです。このアムネスティの立場は、1977年に採択した「ストックホルム宣言」に明確に述べられています。生きる権利は誰もが生まれながらに持っている、基本的な権利の一つです。それはたとえどんな罪を犯した人であれ、否定されてはならないと私たちは考えています。アムネスティはこの立場に立って、すべての死刑に例外なく反対しています。
私はこれは、弱いと思う。弱いという意味は、実のところ命の尊さというものを踏まえた思想とは思えない、ということである。
上記の説明で述べられている、命に対するアムネスティの姿勢は「無神論」的だ。命というものを「人間の権利」としてみなしている。
死刑が「残虐な刑罰」かどうかを、人間が決めてよいものか、という神学的な問題がそっくり抜け落ちている。
ちなみに「残虐な」という言葉は形容詞だが、得てして形容詞なしに成り立たない論旨というものは、未熟な精神であるとしか思えない。
少なくとも、「家族に対する責任」を負う大人が、自分たちの生殺与奪を預けられるような思想ではない。
これに対して、モーセの律法における命の概念は、概ね以下のように現わされるだろう。
「古代オリエントのほとんどの法典は、財産権を中心に構成されている。(中略)また他の法典が死刑囚に恩赦を与える権利を王に与えているのに対し、聖書はそのような権利を想定していない。実際殺人罪では、いかなる金持ちも法の前に無力である。(中略)それは死刑によって道徳的な罪を罰しようとするとどうしても生じる、一つの逆説をも示す。モーセの神学によれば、人は神のかたちに似せて造られている。したがって人の命はただ単に価値があるだけではなく、神聖なものである。人の命を絶つのは神に対する冒涜であり、あまりにも重大な罪であるがゆえに、究極的な処罰、すなわち生命を奪うのが適当とされるのである。金銭による償いだけでは十分ではない。処刑という恐ろしい行為が、逆に人の命の重大さを強調する」
−出典:「ユダヤ人の歴史」ポール・ジョンソン、石田友雄監修(上巻、60〜61ページ)徳間書店
このような説明に従えば、アムネスティの考えは、「命の重大さ」を軽んじている、と見なさなければならない。
アムネスティがイスラエルによる対テロ報復活動について否定的・非難的な姿勢を示している根本的な背景がよくわかった。殺人者への死刑による刑罰が「残虐だ」という同じ視線で、人殺したちへの報復活動を見ているのだ。
テロに対する批判と、テロ報復活動に対する批判が同等に主張されているのも、そうした根本的な考え方によるものなのだ。
世論やマスコミと、国連やアムネスティ、および国家群によって構成される国際社会のうち、多くの場合、死刑をはっきりと肯定できるのは「法治国家」だけかもしれない。その他は、マジョリティ意見ということでは、おそらく常にフラフラと定まりがないのだ。
最近の投稿で「涙腺ウルウル情緒型判官贔屓性思考停止脳髄」といった表現で行き詰まっていたのは、そういうことだったかと思い当たった次第である。
テロへの怒りと、命を奪ったことへの取り返しのつかない事実と痛み、そのことへの理解不足といったことから掲示板への投稿をはじめたのだが、おおよそ自分にとっての答えを頂くことが出たように思う。
これは メッセージ 1 (messages_admin さん)への返信です.
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