Res:<争いの始めから、建国辺りまで>
投稿者: sascom007 投稿日時: 2003/01/18 11:31 投稿番号: [4742 / 20008]
<そもそも、トルコ帝国崩壊までは共存していたユダヤ、アラブが表立った争いをするようになったのは、第一次大戦後ですか?
出来れば争いの始めから、建国辺りまで
お願い出来れば、大体の全体像が理解できそうです。>
1516年、オスマン・トルコ帝国がパレスチナを領有するようになってから、広大な帝国領土内のユダヤ人が、ぼつぼつパレスチナの地へ帰還するようになりました。
しかし纏まった人数の帰還となると、19世紀末から20世紀初頭にかけての帰還ということになるでしょうね。
・第一次帰還(1882〜1903)
主としてロシア皇帝のポグロムを逃れたユダヤ人達の移住
・第二次帰還(1904〜1913)
主として東欧での迫害を逃れたユダヤ人達の移住
この過程で、1904年に最初のキブツである「デガニア(移住の意)」が設立され、1909年にテルアビブが建設されたのです。
この頃は、パレスチナ人(多数派のムスリム、少数派のユダヤ教徒)は、迫害を逃れてパレスチナの地に移住してくるユダヤ人に同情的で、目立ったトラブルは発生していませんでした。
しかし「第一次大戦」中に、イギリスがユダヤ人の資金力とアラブ人の戦闘力を利用しようと考え、双方に独立を約束してから
話が縺れてきたのでしょうね。
・「フセイン・マクマホン書簡」
イギリスは、アラブ人がアラビア半島に独立国家を建設することを承認する
・「バルフォア宣言」
イギリスは、ユダヤ人がパレスチナの地に祖国建設運動を行っていることを理解し、これを支援する
そして実際は、「第一次大戦」終了後の様々な外交交渉を経た後、オスマン・トルコ帝国が放棄した領土は、英仏が大戦中に結んでいた「サイクス・ピコ協定」の内容に近い形で、英、仏、露(ソビエト)三国が分割統治するところとなりました。
その際、パレスチナは「国際連盟」から委任されるという形でイギリスの統治下に置かれたわけです。
こういう状況下で、パレスチナの地を巡り、ユダヤ人国家の建設と、パレスチナを含むアラブ人国家の建設が同時並行的に進行し、1920年4月の「ナビ・ムーサー事件」で、本格的な衝突へと発展していったのです。
エルサレムからヨルダン渓谷に向かう途中にある「ナビ・ムーサー廟」は、「モーゼの墓」とされているところですが、ここでムスリムが蜂起し、同年5月の「メーデー事件」へと繋がっていきました。
さらにマホメット直系のフセイン国王の三男ファイサル(「アラビアのロレンス」で御承知のことと思います)が、1920年にシリア王、1921年にイラク王を名乗るに至り、イギリスもパレスチナの扱いに困り果て、次のような折衷案を打ち出しました。
つまりパレスチナの地を分割し、その約80%をトランスヨルダンと名付け、それをフセイン国王の三男アブドラが統治することを認めたのです。(1923年)
こうして後に残された約20%の地が、それ以降パレスチナと呼ばれることになったわけですが、そこではなおユダヤ人とムスリムの勢力争いが続きました。
1929年8月15日〜16日、「嘆きの壁事件」が発生。これを機に「アラブ高等委員会」議長ハッジ・アミーン・アル・フサイニーが指導し、パレスチナ各地でユダヤ人に対するかなり大規模な攻勢が仕掛けられました。
その際、ヘブロン丘陵地帯の古くからのユダヤ人集落多数が襲撃され、多くのユダヤ人(アラブ語を話すユダヤ人)が殺されました。この情報は「ヘブロン虐殺」として、瞬く間にユダヤ人の間に伝わり、ユダヤ人対ムスリムの本格的な武力抗争へと発展する切っ掛けとなったのです。
いちいち挙げていれば、きりがないので割愛しますが、パレスチナ人の間で今も半ば神格化されているシャイフ・イッズディーン・アル・カッサムについてだけ、簡単に述べておきたいと思います。
カッサムはシリアのジャブラで生まれ、「反仏闘争」を行っていたのですが、パレスチナのハイファに移住してきて、今度はイギリス人、ユダヤ人を相手に闘争。
1935年11月、イギリス軍との衝突で死亡し、史上初めて公式のパレスチナ人の「フェダーイー(ムスリム戦士)」として「シャヒード(殉教者)」に認定されました。このカッサムの葬儀を前哨戦として、いわゆる「アラブ大反乱」(1936〜1938)が起こることになるのです
出来れば争いの始めから、建国辺りまで
お願い出来れば、大体の全体像が理解できそうです。>
1516年、オスマン・トルコ帝国がパレスチナを領有するようになってから、広大な帝国領土内のユダヤ人が、ぼつぼつパレスチナの地へ帰還するようになりました。
しかし纏まった人数の帰還となると、19世紀末から20世紀初頭にかけての帰還ということになるでしょうね。
・第一次帰還(1882〜1903)
主としてロシア皇帝のポグロムを逃れたユダヤ人達の移住
・第二次帰還(1904〜1913)
主として東欧での迫害を逃れたユダヤ人達の移住
この過程で、1904年に最初のキブツである「デガニア(移住の意)」が設立され、1909年にテルアビブが建設されたのです。
この頃は、パレスチナ人(多数派のムスリム、少数派のユダヤ教徒)は、迫害を逃れてパレスチナの地に移住してくるユダヤ人に同情的で、目立ったトラブルは発生していませんでした。
しかし「第一次大戦」中に、イギリスがユダヤ人の資金力とアラブ人の戦闘力を利用しようと考え、双方に独立を約束してから
話が縺れてきたのでしょうね。
・「フセイン・マクマホン書簡」
イギリスは、アラブ人がアラビア半島に独立国家を建設することを承認する
・「バルフォア宣言」
イギリスは、ユダヤ人がパレスチナの地に祖国建設運動を行っていることを理解し、これを支援する
そして実際は、「第一次大戦」終了後の様々な外交交渉を経た後、オスマン・トルコ帝国が放棄した領土は、英仏が大戦中に結んでいた「サイクス・ピコ協定」の内容に近い形で、英、仏、露(ソビエト)三国が分割統治するところとなりました。
その際、パレスチナは「国際連盟」から委任されるという形でイギリスの統治下に置かれたわけです。
こういう状況下で、パレスチナの地を巡り、ユダヤ人国家の建設と、パレスチナを含むアラブ人国家の建設が同時並行的に進行し、1920年4月の「ナビ・ムーサー事件」で、本格的な衝突へと発展していったのです。
エルサレムからヨルダン渓谷に向かう途中にある「ナビ・ムーサー廟」は、「モーゼの墓」とされているところですが、ここでムスリムが蜂起し、同年5月の「メーデー事件」へと繋がっていきました。
さらにマホメット直系のフセイン国王の三男ファイサル(「アラビアのロレンス」で御承知のことと思います)が、1920年にシリア王、1921年にイラク王を名乗るに至り、イギリスもパレスチナの扱いに困り果て、次のような折衷案を打ち出しました。
つまりパレスチナの地を分割し、その約80%をトランスヨルダンと名付け、それをフセイン国王の三男アブドラが統治することを認めたのです。(1923年)
こうして後に残された約20%の地が、それ以降パレスチナと呼ばれることになったわけですが、そこではなおユダヤ人とムスリムの勢力争いが続きました。
1929年8月15日〜16日、「嘆きの壁事件」が発生。これを機に「アラブ高等委員会」議長ハッジ・アミーン・アル・フサイニーが指導し、パレスチナ各地でユダヤ人に対するかなり大規模な攻勢が仕掛けられました。
その際、ヘブロン丘陵地帯の古くからのユダヤ人集落多数が襲撃され、多くのユダヤ人(アラブ語を話すユダヤ人)が殺されました。この情報は「ヘブロン虐殺」として、瞬く間にユダヤ人の間に伝わり、ユダヤ人対ムスリムの本格的な武力抗争へと発展する切っ掛けとなったのです。
いちいち挙げていれば、きりがないので割愛しますが、パレスチナ人の間で今も半ば神格化されているシャイフ・イッズディーン・アル・カッサムについてだけ、簡単に述べておきたいと思います。
カッサムはシリアのジャブラで生まれ、「反仏闘争」を行っていたのですが、パレスチナのハイファに移住してきて、今度はイギリス人、ユダヤ人を相手に闘争。
1935年11月、イギリス軍との衝突で死亡し、史上初めて公式のパレスチナ人の「フェダーイー(ムスリム戦士)」として「シャヒード(殉教者)」に認定されました。このカッサムの葬儀を前哨戦として、いわゆる「アラブ大反乱」(1936〜1938)が起こることになるのです
これは メッセージ 4741 (happyskay2009 さん)への返信です.
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