「PLO」とアラファト議長の到達点
投稿者: sascom007 投稿日時: 2003/01/16 15:43 投稿番号: [4733 / 20008]
1964年の「第一回アラブ首脳会議」で、エジプトのナセル大統領の肝いりで「PLO」が設立された。議長には元サウジアラビア「国連」代表のアハメド・シュケイリ弁護士が就任した。「PLO」はパレスチナ人を代表する組織とされたが、実際はエジプトなどアラブ諸国の意向を忠実に反映するだけの実態の乏しい組織だった。その「PLO」の最終目標は「イスラエルという国家を葬り去ること」と景気はよかったが、ただ大言壮語するだけで、日常的な活動はほとんど何もしていなかった。
ところが、これとは別にパレスチナ人であり、「第一次中東戦争」にエジプト軍中尉として参加したヤセル・アラファトは、「パレスチナ人によるパレチチナ人のための闘争」を旗印に、1958年に「アル・ファタハ」を創設し、難民キャンプを拠点とするゲリラ活動を行っていた。
そして1967年、「第三次中東戦争」を契機に、パレスチナ人の間にも、ようやく「アラブ諸国は頼りにならない」という意識が定着し、それに比例して「アル・ファタハ」への期待が高まった。こうしたパレスチナ人の期待を受けて、「アル・ファタハ」は「PLO」と合体し、1969年2月にアラファトは、「PLO」議長に就任したのである。
そしてウエストバンクとガザに「パレスチナ国家」を建設するという現実路線を打ち出した。これには「PLO」内部でも異論が続出し、激しい議論が展開された。
例えば「PFLP」は、あくまで「イスラエルを葬り去り、パレスチナ全域に独立国家を建設すべき」と主張し、「DFLP」は「まずウエストバンクとガザにミニ・パレスチナを建設し、そこを拠点に最終的にはイスラエルを葬り去って、パレスチナを統一する」という「二段階解放論」を展開した。
1971年に中国、北朝鮮を訪れて以来、非妥協性が目立つようになっていたアブ・ニダルは、特に過激な「テロ闘争至上論」を唱え、少しでも反対する者は誰であろうと次々に暗殺していったので、ついに1974年にアブ・ニダルは「PLO」を除名され、欠席裁判で死刑判決が下された。
そして1974年の「PLO」総会で、「徐々にパレスチナ解放区を拡大していく」という「DFLP」の主張に近い現実路線が採択された。
ところがそれから数年後、「イスラエル・エジプト平和条約」が締結されるなどパレスチナを巡る国際情勢は時代と共に大きく変動し、さらに「レバノン戦争」などで追い詰められたアラファトは、このままでは「パレスチナ国家」は永久に実現しないと考えるようになった。
そこで「PLO」内の最も強硬な「アブ・ニダル派」など約150名を思い切って粛正し、1988年11月15日、アルジェにて「イスラエルの存在を認め、武装闘争を放棄し、イスラエルと共存する形でウエストバンクとガザにパレスチナ国家を建設する」と方針大転換を発表、センセーションを巻き起こした。
アラファトは、同年12月13日に同様の内容の演説を「国連総会」で行い、アラブ諸国を含む世界中の国々から大きな拍手を浴びた。
イスラエルもこれに応え、1993年に「PLO」を承認し、こうして「パレスチナ問題」の話し合いによる解決の可能性が俄かにクローズアップされてきた。
その流れの中で、1994年9月13日の歴史的な「パレスチナ暫定自治合意」調印が実現したのである。(同年12月10日、アラファト議長、ラビン首相、ペレス外相は「ノーベル平和賞」を受賞)
現在、イスラエル、パレスチナ双方において、盛んに「パレスチナ暫定自治合意」を葬り去るべく、テロリズムを含む様々な妨害活動が行われているが、やはり「パレスチナ問題」の包括的解決のためには、この「合意」をたたき台にする以外、手掛かりがないのではないかという気がする。
特にアラファト議長には、後進に道を譲るということも含めて、この到達点を大切にしてもらいたいと思う。
ところが、これとは別にパレスチナ人であり、「第一次中東戦争」にエジプト軍中尉として参加したヤセル・アラファトは、「パレスチナ人によるパレチチナ人のための闘争」を旗印に、1958年に「アル・ファタハ」を創設し、難民キャンプを拠点とするゲリラ活動を行っていた。
そして1967年、「第三次中東戦争」を契機に、パレスチナ人の間にも、ようやく「アラブ諸国は頼りにならない」という意識が定着し、それに比例して「アル・ファタハ」への期待が高まった。こうしたパレスチナ人の期待を受けて、「アル・ファタハ」は「PLO」と合体し、1969年2月にアラファトは、「PLO」議長に就任したのである。
そしてウエストバンクとガザに「パレスチナ国家」を建設するという現実路線を打ち出した。これには「PLO」内部でも異論が続出し、激しい議論が展開された。
例えば「PFLP」は、あくまで「イスラエルを葬り去り、パレスチナ全域に独立国家を建設すべき」と主張し、「DFLP」は「まずウエストバンクとガザにミニ・パレスチナを建設し、そこを拠点に最終的にはイスラエルを葬り去って、パレスチナを統一する」という「二段階解放論」を展開した。
1971年に中国、北朝鮮を訪れて以来、非妥協性が目立つようになっていたアブ・ニダルは、特に過激な「テロ闘争至上論」を唱え、少しでも反対する者は誰であろうと次々に暗殺していったので、ついに1974年にアブ・ニダルは「PLO」を除名され、欠席裁判で死刑判決が下された。
そして1974年の「PLO」総会で、「徐々にパレスチナ解放区を拡大していく」という「DFLP」の主張に近い現実路線が採択された。
ところがそれから数年後、「イスラエル・エジプト平和条約」が締結されるなどパレスチナを巡る国際情勢は時代と共に大きく変動し、さらに「レバノン戦争」などで追い詰められたアラファトは、このままでは「パレスチナ国家」は永久に実現しないと考えるようになった。
そこで「PLO」内の最も強硬な「アブ・ニダル派」など約150名を思い切って粛正し、1988年11月15日、アルジェにて「イスラエルの存在を認め、武装闘争を放棄し、イスラエルと共存する形でウエストバンクとガザにパレスチナ国家を建設する」と方針大転換を発表、センセーションを巻き起こした。
アラファトは、同年12月13日に同様の内容の演説を「国連総会」で行い、アラブ諸国を含む世界中の国々から大きな拍手を浴びた。
イスラエルもこれに応え、1993年に「PLO」を承認し、こうして「パレスチナ問題」の話し合いによる解決の可能性が俄かにクローズアップされてきた。
その流れの中で、1994年9月13日の歴史的な「パレスチナ暫定自治合意」調印が実現したのである。(同年12月10日、アラファト議長、ラビン首相、ペレス外相は「ノーベル平和賞」を受賞)
現在、イスラエル、パレスチナ双方において、盛んに「パレスチナ暫定自治合意」を葬り去るべく、テロリズムを含む様々な妨害活動が行われているが、やはり「パレスチナ問題」の包括的解決のためには、この「合意」をたたき台にする以外、手掛かりがないのではないかという気がする。
特にアラファト議長には、後進に道を譲るということも含めて、この到達点を大切にしてもらいたいと思う。
これは メッセージ 4732 (sascom007 さん)への返信です.
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