怨念の連鎖を断ち切る道は (2)
投稿者: imonoyama3 投稿日時: 2008/03/08 11:49 投稿番号: [15515 / 20008]
私にはそうは思えない。
むしろ占領軍をガザに招き入れる挑発行為だとしか思えない。
確かにガザに侵攻してきた占領軍に軍事的に抵抗することは正当だとはいえ、
撤退した占領軍を挑発して再度導き入れるということを策しているとしか
思えない。
それでは倒錯している。
占領軍を叩き出すのなら正当だと思うが、
占領軍を再び導き入れる闘争とは一体何なのだろう。
こんなものは反占領闘争ではない。
私は武装闘争を否定しないが。
武装しているということと、
武力をどう行為するかということ。
カッサムロケット発射のような武力行使が正当だとは考えない。
あくまでも占領地の占領軍を叩き出す武力行使しか正当だとは思えない。
従って現段階的には、
武装解除はしないが、
ガザに侵攻されたり、空爆されない限り武力を行使しないこと。
理想的には再度、「一方的停戦宣言」を行うこと。
ハマスによる数年前の「一方的停戦宣言」が
何故破綻したのかを考察せねばならない。
何故破綻したのかの考察抜きには語れない。
しかし現在の私には何故破綻したのかは、未だ判断できない。
過去の経過を調べてみたのだが、はっきりしない。
双方の言い分が食い違っている。
ハマスは基本的には「一方的停戦宣言」を遵守したと思うのだが、
イスラム聖戦等はカッサム発射を継続しており、
その限りではイスラエルの反撃も否定できない。
余りにも複雑だ。
過去をしっかり判断できないことは私の未熟さによるものだ。
しかし過去を判断できないことが、現在何もできないことにはならない。
全ては「今、ここ」から始まる。
「今、ここ」には過去の全てが連続して内在している。
全ての過去的なことがあったが故にこそ「今、ここ」がある。
しかし「今、ここ」で生起している非人間的なことに反対しなければならない。
非武装の一般市民への殺傷に反対しなければならない。
150万ガザ住民への集団懲罰に反対しなければならない。
それが私の立脚点だ。
一小市民たる私が、たった一人の個人が、
パレスチナ・イスラエル問題の本質的解決など
できる筈がないことは余りにも自明なことだ。
では、一小市民たる私にできることとは何なのか。
エルサレムのユダヤ教神学校での銃乱射事件を祝うガザの人々の映像を見て、
ユダヤの人々は何を想うだろうか。
一人一人違うだろうが、火に油を注いだとしても不思議ではない。
事実、「アラブ人に報復を」と叫ぶ人々が大勢いる。
では聞くが、数字前にガザで40人以上もの子供達が殺害された時に、
どう思ったのか、何がしたのか、反対したのか。
反対したイスラエル人も存在する。
双方で停戦を訴える声も起きていた。
しかし即時停戦を訴える声が双方で多数派とはならなかった。
これが偽らざる冷厳な現実だ。
それは一体何故なのか。
エジプトが停戦を仲介しようとしているという。
何としても停戦を実現して欲しい。
もう既に多くの血が流れた。
そして停戦が実現したとしても、
また再度破綻するのかもしれない。
それでも尚停戦を実現する努力が積み重ねられなければならない。
重い現実を受け止め、はね返していかねばならない。
その努力の中からしか現実を変える力は育まれない。
人の怨念とは根深いものだ。
一朝一夕には変わる訳はないのだ。
狂喜乱舞する(一部の)ガザの人々。
それを見るイスラエルの人々。
これでは怨念の連鎖が益々続くばかりだ。
しかし全く別の現実も作り出すこともできたのだ。
ガザの人々が集い、ガザの封鎖に反対し、イスラエルの軍事攻撃を弾劾し、
カッサムロケット発射にも反対し、今回の銃乱射にも反対する。
そういう行動を採ることもできたのだ。
私が知らないだけでそういう行動を採った人々もいたのかもしれない。
しかし少なくともそういう人達が多数を
占めているとは言えないことも確かだろう。
これらのスローガンを同時に掲げることは全く相矛盾しない。
そこに貫かれているのは非武装の一般市民への
迫害や殺傷に反対するという論理と倫理だ。
いや、同時に掲げることにこそ意味があると思う。
全く違う現実を作り出すこともできたのだ。
いや、今からでも遅くはない。
そういう現実をこそ作り出すべきではないか。
むしろ占領軍をガザに招き入れる挑発行為だとしか思えない。
確かにガザに侵攻してきた占領軍に軍事的に抵抗することは正当だとはいえ、
撤退した占領軍を挑発して再度導き入れるということを策しているとしか
思えない。
それでは倒錯している。
占領軍を叩き出すのなら正当だと思うが、
占領軍を再び導き入れる闘争とは一体何なのだろう。
こんなものは反占領闘争ではない。
私は武装闘争を否定しないが。
武装しているということと、
武力をどう行為するかということ。
カッサムロケット発射のような武力行使が正当だとは考えない。
あくまでも占領地の占領軍を叩き出す武力行使しか正当だとは思えない。
従って現段階的には、
武装解除はしないが、
ガザに侵攻されたり、空爆されない限り武力を行使しないこと。
理想的には再度、「一方的停戦宣言」を行うこと。
ハマスによる数年前の「一方的停戦宣言」が
何故破綻したのかを考察せねばならない。
何故破綻したのかの考察抜きには語れない。
しかし現在の私には何故破綻したのかは、未だ判断できない。
過去の経過を調べてみたのだが、はっきりしない。
双方の言い分が食い違っている。
ハマスは基本的には「一方的停戦宣言」を遵守したと思うのだが、
イスラム聖戦等はカッサム発射を継続しており、
その限りではイスラエルの反撃も否定できない。
余りにも複雑だ。
過去をしっかり判断できないことは私の未熟さによるものだ。
しかし過去を判断できないことが、現在何もできないことにはならない。
全ては「今、ここ」から始まる。
「今、ここ」には過去の全てが連続して内在している。
全ての過去的なことがあったが故にこそ「今、ここ」がある。
しかし「今、ここ」で生起している非人間的なことに反対しなければならない。
非武装の一般市民への殺傷に反対しなければならない。
150万ガザ住民への集団懲罰に反対しなければならない。
それが私の立脚点だ。
一小市民たる私が、たった一人の個人が、
パレスチナ・イスラエル問題の本質的解決など
できる筈がないことは余りにも自明なことだ。
では、一小市民たる私にできることとは何なのか。
エルサレムのユダヤ教神学校での銃乱射事件を祝うガザの人々の映像を見て、
ユダヤの人々は何を想うだろうか。
一人一人違うだろうが、火に油を注いだとしても不思議ではない。
事実、「アラブ人に報復を」と叫ぶ人々が大勢いる。
では聞くが、数字前にガザで40人以上もの子供達が殺害された時に、
どう思ったのか、何がしたのか、反対したのか。
反対したイスラエル人も存在する。
双方で停戦を訴える声も起きていた。
しかし即時停戦を訴える声が双方で多数派とはならなかった。
これが偽らざる冷厳な現実だ。
それは一体何故なのか。
エジプトが停戦を仲介しようとしているという。
何としても停戦を実現して欲しい。
もう既に多くの血が流れた。
そして停戦が実現したとしても、
また再度破綻するのかもしれない。
それでも尚停戦を実現する努力が積み重ねられなければならない。
重い現実を受け止め、はね返していかねばならない。
その努力の中からしか現実を変える力は育まれない。
人の怨念とは根深いものだ。
一朝一夕には変わる訳はないのだ。
狂喜乱舞する(一部の)ガザの人々。
それを見るイスラエルの人々。
これでは怨念の連鎖が益々続くばかりだ。
しかし全く別の現実も作り出すこともできたのだ。
ガザの人々が集い、ガザの封鎖に反対し、イスラエルの軍事攻撃を弾劾し、
カッサムロケット発射にも反対し、今回の銃乱射にも反対する。
そういう行動を採ることもできたのだ。
私が知らないだけでそういう行動を採った人々もいたのかもしれない。
しかし少なくともそういう人達が多数を
占めているとは言えないことも確かだろう。
これらのスローガンを同時に掲げることは全く相矛盾しない。
そこに貫かれているのは非武装の一般市民への
迫害や殺傷に反対するという論理と倫理だ。
いや、同時に掲げることにこそ意味があると思う。
全く違う現実を作り出すこともできたのだ。
いや、今からでも遅くはない。
そういう現実をこそ作り出すべきではないか。
これは メッセージ 15514 (imonoyama3 さん)への返信です.
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