姆渡遺跡は、縄文人の居留地 ③−3
投稿者: kirameku9umi 投稿日時: 2011/08/05 20:23 投稿番号: [69236 / 73791]
さて・・・ここからが日本列島の石器文化が、長江文化(河母渡遺跡)に影響を与えた、もしくは河母渡遺跡が倭人の移住先だったという本題。
これまで自虐史観では、ケツ状耳飾が日本と同時期に河母渡遺跡からも出土したことをもってして、縄文文化は中国からもたらされたものだとしてきた。
ケツ状耳飾が中国より日本列島の方が数多く出土し、しかもその加工技術が格段に高いにも関わらずである。
(石器時代の日本列島は同時代の中国大陸と比較すると、はるかに文化的先進国だったことが、出土品やその数などの発掘調査から判明している)
しかし、この左翼歴史学者による自学史観は、少なくても6500年前より古いとされる漆製品の発掘(垣ノ島B遺蹟・北海道南茅部町)によって完全に覆されたと言ってよい。
この垣ノ島B遺蹟の発掘は、これまでの定説と違い、河母渡遺跡に漆の技術やケツ状耳飾などの日本固有の石器文化が、河母渡遺跡にもたらされたことの何よりの証拠となるからである。
このことから・・・私は、長江文化より古く、石器文化の先進地であった縄文文化が長江文化(河母渡遺跡)に影響を与えた、もしくは河母渡遺跡が倭人の切り開いた寄港地か移住先だったと考えている。
(縄文文化が長江文化がより古いのは、その頃の中国大陸の気候と大いに関係がある)
河母渡遺跡のある寧波は、その昔、遣唐使も行った古い港街だが、その海路の歴史ははるかに古く、おそらく日本列島とスンダランドとの海上交通の中継地点だったのではないだろうか。
余談だが・・・後に黄河文明が長江文明より発展し始めたのは、中国大陸の温暖化と西アジアの民族(胡人)が多く居住する甘粛省などと地理的に近い黄河文明に、西アジアから先進技術である青銅器や鉄器文化がもたらされてからのことである。
これは メッセージ 69235 (kirameku9umi さん)への返信です.
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