パートⅡ
投稿者: rie2376 投稿日時: 2009/06/21 12:32 投稿番号: [57205 / 73791]
その頃、天下は風雲急を告げていた
家康は豊臣家が建立した、方広寺の
鐘に刻まれた、国家安康の文字が
家康を呪った物だとして強硬な
態度に出る
明らかにこれは口実であった
豊臣家の存在が邪魔になった家康が
豊臣家滅亡を決意したのである
もやはこれまで、淀君始め、重臣達は
諸国の大名に参陣を呼びかける
しかし、承諾する大名は誰一人として
いなかった
既に徳川政権は、磐石となっており
これに背くのは自殺行為に近かった
やむなく、諸国に溢れる牢人に声を掛けた
のである
これに呼応して、天下に名の知れた武将達が
続々大阪城に入る 後藤又兵衛、塙団右衛門
長宗我部盛親
幸村もそんな一人であった、雌伏十五年
思えば長く辛い年月であった
幸村は、一人瞑想に耽る
秀頼様の大恩、如何にして報いん
我、凡庸にして、思い及ばず
大阪城に入った幸村は、知略を尽くして
策を献上する、しかし秀頼側近の重臣達は
聞き入れず、用いられる事は滅多になかった
逆に幸村の勇猛さに感じ入った家康は
何度も使者を立て、徳川軍に寝返りを
勧めている
それも城持ち大名として処するという
破格の物だった
勿論、幸村は一願だにしなかった
私はそんな物の為に戦って
いるのではない
秀頼様の御恩、武士としての本分
それだけで御座る
大阪冬の陣は、和睦の結末となった
しかしこれには、大きな罠が
仕掛けられていた
和睦の条件である、外堀の埋め立て
だけではなく、内掘まで埋められ
大阪城は裸城にさてれしまった
のである
難攻不落と詠われた大阪城も、もはや
風前の灯火であった
慶長二十年五月、再び家康が十五万の
大軍を擁して大阪城に姿を見せた
迎え撃つ豊臣方は五万
幸村は決断する、
もはや奇襲しかない
朝靄の煙る五月七日早朝、大阪城を
取り囲む徳川軍の真っ只中を、六文銭の
旗をなびかせ、怒涛の如く駆け抜ける
騎馬軍団があった
目指すは、家康の首!
いざ押出せー!
死を覚悟の幸村の突撃である、本陣を
固める旗本を蹴散らし、家康は目前で
あった
家康公、真田幸村 これに見参!
御覚悟!
しかし、家康を討ち取ることは出来なかった
体制を立て直した家康軍は、騎馬に矢を射かけ
鉄砲を放ち、さしもの真田騎馬軍団も壊滅の
憂き目を見たのである
稀代の名将、真田幸村も首を打たれ
四十八年の生涯に幕を閉じた
幸村に遅れる事一日、秀頼親子も自害して
果て、これにて豊臣家は終焉を迎えた
後に幸村の死を聞いた、兄の信幸は
幸村こそ、当代一の名将であった
兄として、同じ武将として誇りに思う
そう述べている
信幸が祖となった信州松代藩では
幕末になるまで、代々守られて来た
宝物(ほうもつ)があった
寝ずの番を置いて、幕府の目から
守って来た物は、信幸と幸村が
交わした幾通かの書状であった
幸村こそ真の武将である
幸村が事、夢々忘れまじ
そんな信幸の、気持ちの表れであった
江戸の世になり幸村は逆賊として扱われ
講談、歌舞伎など幸村の活躍を描くものは
厳しい処罰を受けた
しかし名を変え、時代設定を変え、幸村の
生涯は演じら語り継がれてきた
江戸の庶民は、そんな芝居を見ると
大喝采を送ったそうである
義を重んじ小よく大を制す、そんな
幸村の生き様に、人々は共感を持った
のかも知れない
家康は豊臣家が建立した、方広寺の
鐘に刻まれた、国家安康の文字が
家康を呪った物だとして強硬な
態度に出る
明らかにこれは口実であった
豊臣家の存在が邪魔になった家康が
豊臣家滅亡を決意したのである
もやはこれまで、淀君始め、重臣達は
諸国の大名に参陣を呼びかける
しかし、承諾する大名は誰一人として
いなかった
既に徳川政権は、磐石となっており
これに背くのは自殺行為に近かった
やむなく、諸国に溢れる牢人に声を掛けた
のである
これに呼応して、天下に名の知れた武将達が
続々大阪城に入る 後藤又兵衛、塙団右衛門
長宗我部盛親
幸村もそんな一人であった、雌伏十五年
思えば長く辛い年月であった
幸村は、一人瞑想に耽る
秀頼様の大恩、如何にして報いん
我、凡庸にして、思い及ばず
大阪城に入った幸村は、知略を尽くして
策を献上する、しかし秀頼側近の重臣達は
聞き入れず、用いられる事は滅多になかった
逆に幸村の勇猛さに感じ入った家康は
何度も使者を立て、徳川軍に寝返りを
勧めている
それも城持ち大名として処するという
破格の物だった
勿論、幸村は一願だにしなかった
私はそんな物の為に戦って
いるのではない
秀頼様の御恩、武士としての本分
それだけで御座る
大阪冬の陣は、和睦の結末となった
しかしこれには、大きな罠が
仕掛けられていた
和睦の条件である、外堀の埋め立て
だけではなく、内掘まで埋められ
大阪城は裸城にさてれしまった
のである
難攻不落と詠われた大阪城も、もはや
風前の灯火であった
慶長二十年五月、再び家康が十五万の
大軍を擁して大阪城に姿を見せた
迎え撃つ豊臣方は五万
幸村は決断する、
もはや奇襲しかない
朝靄の煙る五月七日早朝、大阪城を
取り囲む徳川軍の真っ只中を、六文銭の
旗をなびかせ、怒涛の如く駆け抜ける
騎馬軍団があった
目指すは、家康の首!
いざ押出せー!
死を覚悟の幸村の突撃である、本陣を
固める旗本を蹴散らし、家康は目前で
あった
家康公、真田幸村 これに見参!
御覚悟!
しかし、家康を討ち取ることは出来なかった
体制を立て直した家康軍は、騎馬に矢を射かけ
鉄砲を放ち、さしもの真田騎馬軍団も壊滅の
憂き目を見たのである
稀代の名将、真田幸村も首を打たれ
四十八年の生涯に幕を閉じた
幸村に遅れる事一日、秀頼親子も自害して
果て、これにて豊臣家は終焉を迎えた
後に幸村の死を聞いた、兄の信幸は
幸村こそ、当代一の名将であった
兄として、同じ武将として誇りに思う
そう述べている
信幸が祖となった信州松代藩では
幕末になるまで、代々守られて来た
宝物(ほうもつ)があった
寝ずの番を置いて、幕府の目から
守って来た物は、信幸と幸村が
交わした幾通かの書状であった
幸村こそ真の武将である
幸村が事、夢々忘れまじ
そんな信幸の、気持ちの表れであった
江戸の世になり幸村は逆賊として扱われ
講談、歌舞伎など幸村の活躍を描くものは
厳しい処罰を受けた
しかし名を変え、時代設定を変え、幸村の
生涯は演じら語り継がれてきた
江戸の庶民は、そんな芝居を見ると
大喝采を送ったそうである
義を重んじ小よく大を制す、そんな
幸村の生き様に、人々は共感を持った
のかも知れない
これは メッセージ 57203 (rie2376 さん)への返信です.