Re: 精神分裂在日朝鮮japanpoorsさんへ
投稿者: rie2376 投稿日時: 2009/06/21 12:17 投稿番号: [57203 / 73791]
同じ物を貼り付けるだけ、猿にも
劣る芸無しチョン
ところで、休日の時間潰しに歴史物を
戦国の名将真田幸村について少しだけ
長いそうなので二回に分けて
九度山の虎
慶長五年、天下の状勢は俄かには緊迫し
石田三成と徳川家康の衝突は避けられない
状況となった
大名諸将、何れに付くか御家の存亡を
賭けて、瀬戸際の選択を迫られる
信州真田家も例外ではなかった
当主真田昌幸は、西軍に付く事を
主張する
徳川勢とは、先年より因縁あり
これに組するは、我が意にあらず
西方にて、御家の安泰を計るべし
真田と徳川は、これまで幾度と無く小競り
合いを繰り返しており
昌幸は徳川に
組みするのを良しとしなかった
対して嫡男信幸は、徳川に付くべく
反論する
父上
天下の形勢は、既に徳川に
傾いておりまする
治部殿を持ってしても、西方勝利は
至難の業
何卒、御再考を
話し合いは幾度となく繰り返された
しかし結論は出ず互いに信ずる道を
進む事になったのである
昌幸と幸村は西軍に、信幸は東軍に
親兄弟、敵味方に分かれる事になった
尤もこの信幸の判断が、結果的に
真田家を幕末まで存続させる事に
なった
(信州松代藩)
慶長五年九月、徳川軍は二手に分かれて
進軍を開始する、家康は東海道を秀忠は
本隊三万八千を率いて中山道を進んだ
中山道の秀忠を待ち受けていたのが
信州上田城の真田親子であった
軍勢は僅か二千五百、秀忠軍の十分の
一にも満たない
しかし自在の戦略は秀忠軍を翻弄し
一刻も争う行軍は、十日余りも
足止めを余儀なくされた
この為秀忠は、肝心の関が原に間に合わず
後々家康から激しい叱責を受けた
万一西軍が勝利すれば、第一の功労者は
真田親子であった
その関が原はあっけない幕切れとなった
西軍は総崩れと成り三成は戦死
昌幸
幸村も捕らえられ、紀州九度山に蟄居の
身となった
九度山に預かりの身となってより
十五年
幸村は次第に老いていく
己が疎ましかった
姉に宛てた書状で
我既に齢(よわい)四十七
歯は欠け髪は白く弱き身と
なり申した
もやは、朽ち果てるを待つばかり
武士の面目も叶わず、捕われ人で
九度山に屍を晒すのみ
我が定めを嘆く幸村に、ある時
一通の書状が届けられた
豊臣秀頼からの勧誘状である
此度、関東勢と一戦交えるものなり
貴殿の御高名、天下に知らぬ者なし
大阪城に入城されたし、委細は
その後(のち)
天は我を見放さなかった、幸村は
心躍らせ勇躍大阪城に向かって行った
これは メッセージ 57198 (japanpoors さん)への返信です.
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