新羅の郷歌について
投稿者: pokosi2000 投稿日時: 2009/05/22 19:57 投稿番号: [56020 / 73791]
日本は万葉集・源氏物語など豊富な民族の古典が存在する。
それに対し朝鮮人には民族の古典は存在しない。
中華意識序列のもと独自文化を抹殺し、シナの古典を学ぶことが彼らの民族の選んだ道。
新羅の時代に三代目という民族の古典が集大成されたが、散逸し今は見る事が出来ない。
自らの古典を保存しなかったのは朝鮮人の勝手だが、困るのは日本の古典が朝鮮語で読めると言う主張である。
日本の古代文化を朝鮮のものと捏造としていることと、同じく日本の古典も朝鮮のものと捏造しようとしている。
これは学問の問題ではなく朝鮮人の願望があるだけだ。
その学問的に一顧の価値もない主張を犬HKやアカピー・変態が垂れ流す。
そもそも新羅の郷歌が解読されていないのになんで日本語の万葉集を朝鮮語で解読出来るのか理解不能。
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文学作品といっても、古代朝鮮語の姿を知るための資料としては「郷歌」と呼ばれる、新羅時代の歌謡である。ちょうど日本の和歌のようなもので、数行の短い歌謡であり、単語レベルでなく文レベルの古代朝鮮語を知るほぼ唯一の資料といえる。ならば古代朝鮮語は解読されたの同然ではないか、と思うかもしれないが、万葉集との決定的な違いは、現存する歌の数である。郷歌は現在20数首しか残っていないため、ここから古代朝鮮語の全貌を知るのは極めて困難である。まずもって、数が圧倒的に少ないため、解読自体がままならないし、ここから判別される単語の数も微々たるものである。郷歌は全て漢字で表記されているが、表記法は漢字の音と訓を複雑に組み合わせているので、たかが20いくつの歌だけでは、それを正確に読み解くことは不可能である。
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/bibimbab/siru/kodai.html
これは メッセージ 55816 (pokosi2000 さん)への返信です.
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