Re: 万国公法と日韓併合条約の正当性
投稿者: k_g_y_007_naoko 投稿日時: 2009/05/02 21:49 投稿番号: [54957 / 73791]
投稿者:直子
朝鮮における万国公法の受容(1/2)
朝鮮における国際法の受容は中国同様ゆるやかであった。1910年になるまで朝鮮語に翻訳されたものは刊行されなかったが、日本がすぐ反応して多くの読者を獲得し、同時に翻刻・和訳・注釈と様々なバージョンが生み出されていったのとは好対照といえる。仮に韓国人研究者たちが考えるように『万国公法』が中国で公刊されてすぐ伝来したのだとすると、1877年までの間表面的には国際法に対応しようとする積極的な動きがなかったことになり、その対応の緩慢さは一層際だつことになる(金容九1999)。その背景にはいくつかの理由がある。まず西欧の事物への拒絶があった。しかし単にそれだけでなく朝鮮側の取った外交戦略も一因であった。朝鮮は、対西欧外交では宗主国清朝を前面に立てることで直接列強と対峙しないですむようなスタンスを可能な限り取り続ける外交戦略を選択した。直接対峙による国力消耗を避けるためである。また中国同様、朝鮮でも列強の砲艦外交とほぼ同時に「万国公法」がもたらされたため、それへの不信の念がなかなか払拭されず、受容の遅れにつながったためでもある。
そうした姿勢が徐々に受容の方向へと変化しはじめたのは、国際情勢が緊迫の度を増した為である。先述したように朝鮮ははじめ華夷秩序に留まることを選択したが、しかしその中心に位置する清朝自体が近代国際法に対応した動きをし始めるようになる。琉球・台湾・ベトナムなど朝貢国(あるいは「属邦」・「藩属国」ともいう)と言われる地域が華夷秩序から離脱したことにより、清朝は遅まきながら国際法への対応を開始し、朝鮮を近代国際法下における属国に位置づけ直そうとし始めたのである(岡本2004、並びに2008)。
これは明治日本の外交攻勢が大きな要因となっている。1876年に日朝修好条規が締結され、朝鮮は条約体制に参加することとなった。ただ朝鮮側としては、それまでの日本との交隣関係を明文化したとの捉え方で、華夷秩序から条約体制に乗り換えたつもりはなかった。朝鮮最初の条約が不平等条約であったのは、日本側の砲艦外交の結果でもあるが、国際法や条約体制に関し、朝鮮側が関心を払っていなかったことも要因である。一方日本は第一条に「朝鮮国は自主の邦」と挿入し、朝鮮を清朝の影響から切り離し独立国として認知しようとした。これが刺激となって、朝鮮を華夷秩序内にとどめようとする清朝と、条約体制の中に引き込み、その上で自らの勢力下に置こうとする日本の間に確執が生じたのである。清朝は最後の朝貢国朝鮮を失うことのないよう次第に朝鮮の内政外交に積極的に介入するようになった。当初、李鴻章が書簡を送った朝鮮政界の大物李裕元は頑なにその国際法受容を拒んでいる。しかし条約締結後に実施された日本への数度の視察団派遣、特に二回目に派遣された金弘集は、東京において何如璋・張斯桂・黄遵憲ら駐日清国公使たちと面会し、開国と西欧各国との条約締結、貿易を勧められ、大いにその影響を受けた。なお張斯桂は『万国公法』の序文の一つを書いた人物である。金弘集は何如璋らの説得に心を動かされ、その意向を朝鮮へ帰国した後に高宗や官僚たちに伝えた。同時に『万国公法』を含む西欧について書かれた著作(西学書)への関心が徐々に高まっていき、開化派と呼ばれる開明的な一派も形成されていった。
さらに清朝が朝鮮とアメリカとの条約締結を仲介・斡旋した結果、米朝修好通商条約が1882年に批准された。これは朝鮮が日本やロシアによって侵略されそうな場合、アメリカなどの介入を期待すると同時に、朝鮮が清朝の属国であること(宗属関係の確認)を条約によって明確化させる目的で為された。ただ後者はアメリカの拒否にあい、条約そのものではなく照会文で言及されることになった。
朝鮮における万国公法の受容(1/2)
朝鮮における国際法の受容は中国同様ゆるやかであった。1910年になるまで朝鮮語に翻訳されたものは刊行されなかったが、日本がすぐ反応して多くの読者を獲得し、同時に翻刻・和訳・注釈と様々なバージョンが生み出されていったのとは好対照といえる。仮に韓国人研究者たちが考えるように『万国公法』が中国で公刊されてすぐ伝来したのだとすると、1877年までの間表面的には国際法に対応しようとする積極的な動きがなかったことになり、その対応の緩慢さは一層際だつことになる(金容九1999)。その背景にはいくつかの理由がある。まず西欧の事物への拒絶があった。しかし単にそれだけでなく朝鮮側の取った外交戦略も一因であった。朝鮮は、対西欧外交では宗主国清朝を前面に立てることで直接列強と対峙しないですむようなスタンスを可能な限り取り続ける外交戦略を選択した。直接対峙による国力消耗を避けるためである。また中国同様、朝鮮でも列強の砲艦外交とほぼ同時に「万国公法」がもたらされたため、それへの不信の念がなかなか払拭されず、受容の遅れにつながったためでもある。
そうした姿勢が徐々に受容の方向へと変化しはじめたのは、国際情勢が緊迫の度を増した為である。先述したように朝鮮ははじめ華夷秩序に留まることを選択したが、しかしその中心に位置する清朝自体が近代国際法に対応した動きをし始めるようになる。琉球・台湾・ベトナムなど朝貢国(あるいは「属邦」・「藩属国」ともいう)と言われる地域が華夷秩序から離脱したことにより、清朝は遅まきながら国際法への対応を開始し、朝鮮を近代国際法下における属国に位置づけ直そうとし始めたのである(岡本2004、並びに2008)。
これは明治日本の外交攻勢が大きな要因となっている。1876年に日朝修好条規が締結され、朝鮮は条約体制に参加することとなった。ただ朝鮮側としては、それまでの日本との交隣関係を明文化したとの捉え方で、華夷秩序から条約体制に乗り換えたつもりはなかった。朝鮮最初の条約が不平等条約であったのは、日本側の砲艦外交の結果でもあるが、国際法や条約体制に関し、朝鮮側が関心を払っていなかったことも要因である。一方日本は第一条に「朝鮮国は自主の邦」と挿入し、朝鮮を清朝の影響から切り離し独立国として認知しようとした。これが刺激となって、朝鮮を華夷秩序内にとどめようとする清朝と、条約体制の中に引き込み、その上で自らの勢力下に置こうとする日本の間に確執が生じたのである。清朝は最後の朝貢国朝鮮を失うことのないよう次第に朝鮮の内政外交に積極的に介入するようになった。当初、李鴻章が書簡を送った朝鮮政界の大物李裕元は頑なにその国際法受容を拒んでいる。しかし条約締結後に実施された日本への数度の視察団派遣、特に二回目に派遣された金弘集は、東京において何如璋・張斯桂・黄遵憲ら駐日清国公使たちと面会し、開国と西欧各国との条約締結、貿易を勧められ、大いにその影響を受けた。なお張斯桂は『万国公法』の序文の一つを書いた人物である。金弘集は何如璋らの説得に心を動かされ、その意向を朝鮮へ帰国した後に高宗や官僚たちに伝えた。同時に『万国公法』を含む西欧について書かれた著作(西学書)への関心が徐々に高まっていき、開化派と呼ばれる開明的な一派も形成されていった。
さらに清朝が朝鮮とアメリカとの条約締結を仲介・斡旋した結果、米朝修好通商条約が1882年に批准された。これは朝鮮が日本やロシアによって侵略されそうな場合、アメリカなどの介入を期待すると同時に、朝鮮が清朝の属国であること(宗属関係の確認)を条約によって明確化させる目的で為された。ただ後者はアメリカの拒否にあい、条約そのものではなく照会文で言及されることになった。
これは メッセージ 54956 (k_g_y_007_naoko さん)への返信です.