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憲法第九条 - マッカーサ草案 (4)

投稿者: k_g_y_007_naoko 投稿日時: 2009/02/28 15:16 投稿番号: [50980 / 73791]
投稿者:爺

●天皇制との交換取引か

  当時、天皇戦犯説を主張していた。そうした状況から考えれば、次の2人の説は説得力があるような気がする。

「この会談で『天皇制と第9条』が暗黙にせよ、交換取引されたとすれば,幣原は真相を口外できぬ立場に追い込んでしまったことになる。のちに、解任されたマッカーサーが『第9条は幣原首相の発案だ』と言い出しても,『実は…』と反撃できず,沈黙を守ったのも説明がつこう。」(秦郁彦『昭和天皇五つの決断』あとがき文春文庫1994)

「国際的非難と危惧の中から天皇制を救い出すためには、天皇を象徴ととするだけでは足らず、戦争を放棄するほかなかったのであろう。そのような配慮は、側近や知人には私語しえても、おおやけには述べうることではない。」(升味準之輔『戦後政治』上   東京大学出版会1983)

  ここまでみてくると、戦争放棄は天皇制存続と一対のものとして日米間でやり取りされていたことがわかる。日米どちらの発案かといえば、昭和天皇か幣原かは別にして、敗戦国日本の立場から非戦の決意を現したと見るのが自然ではないだろうか。出自は別として、戦争放棄こそ人類の理想であり、これを戦後の日本人が崇高な「原理原則」として培ってきたことは間違いない。「原理原則」はたとえどんな状況に直面しても安易に変えるべきではないと思う。

53年前、 政府が閣議で憲法改正案の検討を始めた矢先の1946年2月1日、毎日新聞は一面で憲法問題調査委員会(松本委員長)の試案(宮沢俊義試案とほぼ同じ)をスクープした。この記事の2日後にマッカーサーの憲法改正3原則が示され、これに基づいて2月10日にGHQ民政局案が作られた。結局、GHQは日本政府が示した松本案を拒否し、幣原は閣議でマッカーサー草案を基に政府案を作る事を決定した。

当時,総理官邸,枢密院,宮内庁を担当していた毎日新聞記者西山柳造は「スクープの経緯については『あるところから手に入れた』ということにしているが、実は松本委員会の事務局からとった。事務局に資料があったから『もらった』ということである。…一部では、吉田(茂)外相による観測気球との見方がされたがそんなことはない。」(『政治記者の目と耳』第4集政治記者OB会1999)とこれまで漠然と伝えられてきた試案入手の裏話を本人の言葉で披露している。こうした秘史が次々に明らかにされることを望みたい。(敬称略)#

 

「戦争放棄」条項制定までの経緯

1945年

9月27日天皇・マッカーサー第1回会見

10月4日近衛文麿・マッカーサー会談

10月5日幣原喜重郎内閣成立

10月11日幣原・マッカーサー会談

10月13日政府、憲法問題調査委員会(委員長松本丞治国務大臣)設置〜1946年2月2日解散

11月5日高野岩三郎委員会会合

11月23日近衛案上奏

12月8日衆議院で松本4原則示す

12月16日近衛服毒自殺

12月27日憲法研究会「憲法草案要綱」

1946年

1月1日人間宣言

1月4日松本丞治   憲法改正私案「天皇は至尊にして」

1月24日幣原・マッカーサー会談

2月1日毎日新聞「松本試案」スクープ

2月3日マッカーサーノート「憲法改正3原則」示す

2月8日政府、憲法問題調査委員会の憲法改正要綱(甲案)

2月10日憲法・総司令部草案

2月12日総司令部、日本政府に総司令部草案を示す日本案拒否  

2月22日松本,吉田,白州とホイットニーら会談

2月22日閣議、総司令部草案で政府案作成を決定

2月26日米英中ソが対日理事会設置   拒否権認める

3月6日政府、憲法改正草案要綱発表

4月10日戦後初の総選挙

4月22日幣原内閣総辞職

5月22日第1次吉田茂内閣成立

6月20日天皇勅書で戦争放棄承認(第90回帝国議会開院式)

11月3日日本国憲法公布

1947年

5月3日日本国憲法施行

<続く>
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