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馮弘が日本に仏教を伝来(2/2)

投稿者: k_g_y_007_naoko 投稿日時: 2009/02/17 20:13 投稿番号: [49869 / 73791]
投稿者:直子

しかし、事態は急速に収まりました。彼は中国を離れる時から持参した数々の宝物やこの国になかつた桂甲といわれる新しい鎧などを倭国大王に献上し、さらに精巧な彫金技術や美しい絹織物の製作技術をもつた民たちを率いてきたことを申し出て「その技術を役立てて欲しい」と、この国の大王に入国することを求めたのです。

華美な宝剣や透かし彫りのついた王冠・金製飾り付きの耳環・今まで見たことのない美しく飾られた鞍や彫金の馬具は中国の加工技術で作られ、実用だけの馬具しか持っていなかった倭国豪族たちの心を動かしました。

もとより、主要な倭国豪族にもさまざまな馬具であるとか、桂甲・耳飾りなどが贈られたでしょうし、そのような贈り物に弱いのは世の常でしたから彼らの入国は倭国大王から認められたでした。

  一応、彼の民たちは物部軍の監視下に連行され、跡部郷(河内国渋川郡)に安置されました。この地は物部氏の本拠地とされる所で捕虜収容所か難民収容所みたいなところだつたのでしょう。

−【死ぬ者が多かった】−(書紀・雄略紀)と後に記録されています。
難民収容所での苛酷な生活から自分の民を救い出し、平穏な帰化の道に就けるための働きかけが行われました。

大和を訪れ、倭国大王に直接逢つて「この国を奪うようなことはしない。」と誓約した彼は生涯この誓を守り通したのです。

彼の名前を明らかにしておきましょう。馮   弘(ふう・こう)という名でなんと中国北部の国、北燕国の王様だった人物では・・と考えられます。

(奈良県橿原市新沢千塚古墳群126号墳からは、馮弘の伯父馮素弗の墓や馮一族の墓(房身村2号墓)から出土した冠帽飾りに酷似した純金形板が出土しています。詳細は後述)

お連れになった王子は馮   王仁といわれる方で、その他大勢の民・新漢人といわれる人々をつれて上陸して来たのでした。

後に日本国の仏教に多大の貢献をする人達で、五世紀中頃と推測される渡来時にはおそらく仏像や仏舎利・仏図・仏具それに仏経典を持参していたのだろうと思われます。

  ところで、日本の歴史書である日本書紀や古事記に彼らの来朝の話が書いているのやら、書いていないのやらよく分からないのです。

書いていないのではなくて、実は出雲神話の中に出てくるスサノオ(須佐の男)というのがどうもそれらしい。これから本書を読んでいくうちに、なぜ馮   弘の来朝やその子たちの行跡が歴史の場から神話の中に移動し、新漢人と分離されているのかがだんだんと分かるようになるでしょう。

日本書紀が隠したいのは、「仏教の到来時期」でした。仏教が到来したことによって日本列島の中では古来の宗教を守ろうとする人たちと仏教に帰依した人たちの間で宗教戦争が起こります。

そして倭国という国が滅亡して日本という国に変わったこと、それは7世紀後半の大和政権にとつて明らかにすることが出来ないことでした。

仏教伝来は古い時代から新しい時代に移して、日本列島で起きた宗教戦争を隠そうとしたのです。だから書紀に書かれている仏教関係記事の年月は信用できません。

逆に馮   弘とその一族の話は現実の歴史から神話の世界に移し、全体像を隠そうとしたのでした。出雲神話に仕立てたのです。・・・
http://www.wakokugaku.org/izumo/sub2.htm


出雲に漂着した人々のリーダーが大和朝廷の印象をよくするため「馮弘」またはその一族と名のったのかも知れませんわね。う〜ん、やっぱり分らない..^^;
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