馮弘が日本に仏教を伝来(1/2)
投稿者: k_g_y_007_naoko 投稿日時: 2009/02/17 20:04 投稿番号: [49867 / 73791]
投稿者:直子
日本書紀の隠したいこと。仏教徒の渡来
むかし、ある人物が自分の民を連れて、朝鮮半島経由海を越えて日本列島にやってきました。そして上陸されたのは山陰地方・出雲の海岸でした。
昔の港は川の河口でしたから、その人物も出雲の海岸に流でる簸の川(ひのかわ)の河口に着き、一息ついたのかもしれません。
前後して到着した船団には、はるか遠い中国の地から付き従った彼の息子やのちに新漢人と呼ばれる「鞍作」・「衣縫い」などの民達・また途中立寄り、保護を受けた高句麗国の長寿王が、彼のため護衛に付けた兵たちが乗船していました。
列島にくるのが目的だつたのか、それとも南中国に渡ろうとしながらもなにかの手違いで、たまたま出雲の海岸に着いてしまったのか判断が迷うところです。
それというのも実は故郷を一緒に出発した彼の親族が途中離れて、南中国の宗という国へ行きその保護を得て栄え、その子孫が奈良時代に日本の仏教界に大きな貢献をすることになるからです。
中国僧「願真和上」の渡海に尽力する彼の親族の後裔の話やそこにでてくる日本人名の話は、すでに有名で学者の研究もあります。
だから、どこかで意図的に分離したのではなく、混乱の中で親族がばらばらに別れて日本・南中国とそれぞれの道をたどつたというべきでしょう。
南中国に渡った人々とは、お互いの安否を気遣いながらも日本の海岸に上陸した後は、当面自らの安全を計らなくてはなりません。
当時出雲は倭国という国に属し、仏教徒である彼らとは異なった宗教をもつていました。そんな異なった文化の中に突然入り込んだのですから危険な状態を想像しなくてはなりません。
人口希薄な出雲海岸だといえ、大勢の人間の上陸はたちまち付近住民の騒ぎとなりました。早速通報によって、出雲警備の豪族やさらには大和朝廷に報告されたことでしょう。
倭国を治める王は大王という王号で呼ばれ、大和(いまの奈良県)に都していたのです。倭国大王は外国人たちが集団で出雲海岸に上陸したとの報告を受け、直ちに倭国の軍事組織である大伴・物部の軍隊を出動させたのです。
出雲の海岸で、この集団と倭国の軍隊が戦いをしたのかどうかは分かりませんが、倭国の軍勢が出雲地方に進駐したことは付近に祭祀される物部神社や天太玉命神社(大伴系)など、倭国大豪族氏神の存在によつて想像することができます。むかしは軍事行動をする場合、氏神を祭祀する神社を建てるということがおこなわれていたのです。
これにたいして、出雲に上陸した人々は大きな抵抗をすることなくただ逃げ回ったのでしょう。彼らは仏教徒でした。自国を放棄し放浪の旅にでたのも仏教の教えに従って殺生を嫌い戦争を放棄したことにあります。
平和主義の人々であったからこそ、国を捨てはるか東海の国に辿り付いたのです。だから戦いを避けて川の上流へ、山の中へと逃げ込んだことでしよう。
簸の川上流の須佐盆地は険阻な道に阻まれ、軍勢の進撃を避けるに適した場所であることは一度足を運んでいただけると容易に理解できます。彼らはやつとの思いで、この須佐の地に逃げ込んできました。その間に護衛の高句麗兵たちが若干の抵抗をしたかもしれませんが受身の姿勢を崩さなかったのではないかと思われます。
<続く>
日本書紀の隠したいこと。仏教徒の渡来
むかし、ある人物が自分の民を連れて、朝鮮半島経由海を越えて日本列島にやってきました。そして上陸されたのは山陰地方・出雲の海岸でした。
昔の港は川の河口でしたから、その人物も出雲の海岸に流でる簸の川(ひのかわ)の河口に着き、一息ついたのかもしれません。
前後して到着した船団には、はるか遠い中国の地から付き従った彼の息子やのちに新漢人と呼ばれる「鞍作」・「衣縫い」などの民達・また途中立寄り、保護を受けた高句麗国の長寿王が、彼のため護衛に付けた兵たちが乗船していました。
列島にくるのが目的だつたのか、それとも南中国に渡ろうとしながらもなにかの手違いで、たまたま出雲の海岸に着いてしまったのか判断が迷うところです。
それというのも実は故郷を一緒に出発した彼の親族が途中離れて、南中国の宗という国へ行きその保護を得て栄え、その子孫が奈良時代に日本の仏教界に大きな貢献をすることになるからです。
中国僧「願真和上」の渡海に尽力する彼の親族の後裔の話やそこにでてくる日本人名の話は、すでに有名で学者の研究もあります。
だから、どこかで意図的に分離したのではなく、混乱の中で親族がばらばらに別れて日本・南中国とそれぞれの道をたどつたというべきでしょう。
南中国に渡った人々とは、お互いの安否を気遣いながらも日本の海岸に上陸した後は、当面自らの安全を計らなくてはなりません。
当時出雲は倭国という国に属し、仏教徒である彼らとは異なった宗教をもつていました。そんな異なった文化の中に突然入り込んだのですから危険な状態を想像しなくてはなりません。
人口希薄な出雲海岸だといえ、大勢の人間の上陸はたちまち付近住民の騒ぎとなりました。早速通報によって、出雲警備の豪族やさらには大和朝廷に報告されたことでしょう。
倭国を治める王は大王という王号で呼ばれ、大和(いまの奈良県)に都していたのです。倭国大王は外国人たちが集団で出雲海岸に上陸したとの報告を受け、直ちに倭国の軍事組織である大伴・物部の軍隊を出動させたのです。
出雲の海岸で、この集団と倭国の軍隊が戦いをしたのかどうかは分かりませんが、倭国の軍勢が出雲地方に進駐したことは付近に祭祀される物部神社や天太玉命神社(大伴系)など、倭国大豪族氏神の存在によつて想像することができます。むかしは軍事行動をする場合、氏神を祭祀する神社を建てるということがおこなわれていたのです。
これにたいして、出雲に上陸した人々は大きな抵抗をすることなくただ逃げ回ったのでしょう。彼らは仏教徒でした。自国を放棄し放浪の旅にでたのも仏教の教えに従って殺生を嫌い戦争を放棄したことにあります。
平和主義の人々であったからこそ、国を捨てはるか東海の国に辿り付いたのです。だから戦いを避けて川の上流へ、山の中へと逃げ込んだことでしよう。
簸の川上流の須佐盆地は険阻な道に阻まれ、軍勢の進撃を避けるに適した場所であることは一度足を運んでいただけると容易に理解できます。彼らはやつとの思いで、この須佐の地に逃げ込んできました。その間に護衛の高句麗兵たちが若干の抵抗をしたかもしれませんが受身の姿勢を崩さなかったのではないかと思われます。
<続く>
これは メッセージ 49866 (k_g_y_007_naoko さん)への返信です.